2003巻頭言4~6月号
2003年4月  
強い者は弱い、弱い者は強いで」─アフガン・イラク戦争に思う─

イラク攻撃が始まった3月20日の翌日は、アフガニスタンやパキスタンなど四季のあるイスラーム圏では新年を祝う。米国は大晦日から正月にかけて、イラク侵攻を開始したわけだ。そのとき筆者はカブールにいた。 
正月2日目にあたる3月21日、カブールでは実に5年ぶりに雨らしい雨が降った。市中を走る車の大半が日本製の中古車である。車の排気ガスのすごさはいつもと変わりないが、ほこりまみれの樹木は久しぶりにシャワーで洗われ生き返ったように見えた。大地は雨のおかげで砂埃を巻きあげず、快晴で実に清々しい日であった。驚喜したのは水不足に悩む農民たちであったろう。「りゆうけつくれば水がほしかろ」(ふ13-101)というお言葉が胸に迫った。対照的に、筆者が宿泊した報道陣に人気のあるムスタファ・ホテルで放映されている、アルジャジーラをはじめとする国際テレビ番組は、イラクの砂漠を猛烈に吹き荒れる砂あらしに苦闘する米軍の様子を報道していた。
アフガニスタンに平和が訪れているわけではない。逆に、イラク戦争を契機にして民間外国人も標的にしたタリバンによるゲリラ戦が活発化している。特に南部と東南部ではテロ活動が増えているが、3月27日には中部のウルズガン州ではタリバンとアメリカ特殊部隊が戦闘を行い、赤十字国際委員会の職員が射殺されている。国際テロ組織アル・カーイダは、イスラム原理主義者のホームページで「アメリカはアフガンでの失敗の代わりにイラク戦争を始めた。国際治安支援部隊(ISAF)はタリバンとアル・カイーダの剣にまみえることになろう」と警告している。ISAFとは首都カブールの治安を守る軍隊のことである。米軍が圧倒的な武力でバグダッドを物理的に占拠し、一時勝利宣言を行っても、試練は終わったのではなく、本当の試練はこれから始まるだろう。さまざまな意味を込めて「強い者は弱い、弱い者は強いで」(さ20/12/4)という神言が思い出される。
今回のアフガニスタン訪問は、おやさと研究所の自然・人間環境学研究室が中心となって推進している、天理エコモデル・デザイニングセンターのアースバッグ・シェルター、そしてチェックダムや井戸掘りなどといった住居・水資源確保の試みが、天理大学地域文化研究センターの「国際参加」プロジェクトを通して、アフガニスタン難民村でも適応できないかという可能性を調査するためであった。世界から数多くのNGOがさまざまな領域で恵まれない人たちのために汗を流している。その人たちとの協働も視野に入れている。
3月7日から2週間、天理大学の学生8名(内女性5名)他教員3名と造園家など4名のスタッフを加えた計15名がインドに赴き、昨年建設した土嚢シェルターの横に、現地のNGOの人たちと新たに少し大きめのシェルター1棟を完成した。隣接する村の質素な小学校の図書館として利用される予定である。第1回隊がつくったシェルター2棟の横に、造園家グループはインドではめずらしい日本庭園を造った。このアンキット村で2001年の夏に植えた竹はすでに背高く茂っており、今回持参した孟宗などの5種類の竹は石庭とシェルター2棟の中間に植樹した。将来が楽しみである。繁殖すれば、これらの竹は建材や家具の素材としても利活用され、筍は食料となる。
灼熱のデリーを3月17日にアリアン・アフガン航空で発ち、冬のカブールに向かった。予定どおりに到着したのはありがたかったが、冬着と竹の根を梱包したトランクが出てこない。震えながら準難民になったつもりで、旧知のマンガール・フセイン大臣のところに行きたすけを求めた。早速秘書にバザールに案内してもらい、冬物を手に入れた。2米ドルで購入した長ズボン代わりの古着のトレパンには、日本語で学生の名前が縫われていていた。荷物は1週間後、デリーへ出発直前カブール空港で出てきたので、あわててトランクを開け、竹の根っこの包みを見送りの英語の分かるカブール大学生シャフィーク君に渡して、先に面談しキャンパス植樹の了解を得ていたA・ポパール学長に届けてもらうことを約束、一安心して機上の人となった。離陸は7時間も遅れどうなることかと心配したが、こういうことに慣れているのか悠然として待ち続ける他の乗客の姿には感心させられた。
カブールの北部30kmあたりにソマリ平野が広がっている。この地域は戦争以前は有名なブドウの産地であった。しかし、タリバンが農家に敵が潜伏するのを防ぐために、ブドウ畑も、カレーズ(地下水路)も、村落も徹底的に破壊してしまい、くずれた土の家が、あたかも古代遺跡のような姿で残っていたのが非常に印象的であった。この地方にも農民が少しずつ帰還しはじめているが、ブドウを再生し、生きるためにはまず水が必要となる。そこで、水の流れていないカレーズの復活が生活再建の必須条件となる。この夏は、せめて1本でもこのカレーズの修復に向けて「一に百姓たすけたい」と思し召される、教祖の思いに一歩近づかせて頂きたいと考えている。
 
2003年5月   
劣化ウラン兵器とクラスター爆弾の恐怖     

ヨルダンの首都アンマンの国際空港で毎日新聞の記者が所持していて爆発した物体は、クラスター(集束)爆弾の子弾だった可能性が出てきた。クラスター親爆弾には数百の子爆弾が詰め込まれ、上空千mくらいで飛散し、落下の瞬間に爆発する。戦車などの4�の装甲板を貫通する能力があるといわれるが、その1割前後は不発弾として残り「第2の地雷」と呼ばれる。アフガニスタンやイラクでは戦後も民間人の被害が拡大している。
筆者はこの3月に視察したカブールの「地雷除去・アフガン復興機構」が管理・経営するオマール(OMAR)兵器博物館で、使用済み現物の説明を身近に受け、クラスター爆弾にも劣化ウランが使われているのではないかと感じた。この博物館には、アフガニスタンなどで使用されたさまざまな地雷や爆弾、ミサイルなどの兵器が展示されている。各国の外交官や国連関係者、そして兵役に従事する人たちが、カブールに赴任すると必ず訪れるところだという。毎日新聞の記者もここを前もって訪れ、兵器についての基本的な知識をもっていたならば、今回のような悲惨な事故は未然に防げたであろう。機上で爆発していたらと想像すると、その可能性は否定できないだけに、武器に関する無知は犯罪に近いと言われても仕方がない。なにしろ子弾をキャッチボールして遊んでいたと言うから驚きである。各新聞社は戦地に派遣するジャーナリストに武器についての基礎知識を義務づけるべきだろう。
「悪魔の金属」といわれる劣化ウラン弾は、1991年湾岸戦争の時にはじめてアメリカ軍が使用した。「劣化」という名称は危険性がなくなったという意味では決してない。原子力発電所の放射性廃棄物から造られるれっきとした放射線物質である。体内に取り込まれればガンを引き起こし、重金属としての毒性を合わせもつ。アフガニスタンでは約700トンが使用された。また湾岸戦争では、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が述べ11万回の出撃で、8万8千トンの爆弾を投じて、42日間で15万人から30万人が殺されている。このときイラクの地に劣化ウラン弾の微粒子が3百万トンもばらまかれた。その量は広島の放射性微粒子の1万4千から3万6千倍に相当すると言われている。戦争後も空気、水、大地に残留したウランを市民が取り込み、ガンや白血病、死産、流産、奇形をもたらし、従軍した兵士やその子どもたちにも被害が広がっている。
イラクの南部最大の都市バスラでは、1988年の記録によると白血病とガンによる死者は34人であったのが、湾岸戦争5年後の1996年では219人、2000年には586人に激増している(『PEN』第357号)。またイラク政府によれば、イラク全土では1990年以来子どものガンは5倍、生殖器異常出産と白血病は3倍に増加し、イラク国民全員ではガンの増加は38%となっている(『世界』5月号)。劣化ウランの半減期は45億年といわれるので、この数字が劣化ウランによるものとすると、イラクは永久的にこの病魔にとりつかれることになるわけだ。
このような「湾岸戦争症候群」に関しては、劣化ウランとの因果関係は証明されていないというのが米国やわが国の政府見解である。しかし、5万件にも及ぶウェブ上の関連情報の数件を読むだけで、劣化ウランが原因であることは近く科学的に証明されると思われる。そのとき、使用者は戦争犯罪者としてその責任をきびしく問われなければならない。英国防省は4月24日、両者に科学的因果関係は明らかでないと一方で主張しながら、イランから帰還する兵士に劣化ウランの体内への影響を調べる尿検査を実施すると発表した。わが国では、クラスター爆弾が北海道の自衛隊基地にもあり、沖縄の嘉手納米軍基地にもある。防衛庁長官はわが国自衛のために有効な武器として、その存在価値を認めている。
核廃棄物である劣化ウランは、長年ネイティブ・アメリカン居留地などに野積みにされていて、米政府の頭痛の種であった。国防総省がこれに目をつけて、軍需産業に1トンあたり1ドルというタダ同然の値段で売却したといわれている(『世界』5月号)。貫通力が格段に優れた兵器の材料となるだけに、それは「魔法の金属」とも呼ばれる。その核兵器を多量に持っている米国が、コソボや、核兵器やテロ集団をかくし持っているだろうという国を怪しからんとして、正義と自由の名の下に非戦闘員をも殺害してきた。
いま北京を中心として猛威を振るっているSARS(重症急性呼吸器症候群)の死亡者は5月15日現在で600人を超えた。SARSと劣化ウランやクラスター爆弾は「拡散」するという点で共通しているが、前者はウィルスによる一時的伝染であり、後者は兵器を使った半永久的殺戮である。悲惨さでも共通しているが、後者にはおろかな「高山」の人間の意志が強烈に関わっているだけに腹立たしいこと極まりがない。その象徴であるブッシュ大統領が、ことにあたって擬似宗教的発言を繰り返すのには、こころあるクリスチャンは心底あきれているのではないか。

2003年6月 
「若江の家」と文明開化     

嘉永6年(1853)米国対日使節ペリーの来航により、日本の長い鎖国は解かれた。その後欧米の文物が急激に流入し、わが国は急速に西洋化・近代化した。明治前半期にはその文物の輸入が国策として大々的に行われたが、その西洋文明を積極的に取り入れた現象を文明開化という。文明開化を象徴するものには、散切頭に洋服、ランプに牛鍋、鉄道や蒸気船などがあるが、数多くのいわゆる洋館という特異な建物も、見逃すことができない文明開化の産物であった。中央の官庁をはじめ、学校、駅舎、銀行、ホテル、そして個人の邸宅といわれる大きな和館・洋館などに見られる建築様式は、日本の木造建築とは異質な技術と材料を採用したものからなり、日本近代建築史のなかでは、日本の伝統的建築と近代建築の狭間に出現した特異な建物といわれる。
天理大学構内に建つ大正13年に竣工した「若江の家」は、この文明開化がもたらした象徴的・歴史的建物として位置づけられる。当初、中山正善天理教「管長公勉強室」として、大阪の若江岩田にあった天理教大阪教務支庁境内に建てられたが、昭和30年天理大学の前身である外国語学校創設の30周年を記念して現在の位置に移築された。その理由は、創設者が述べるように、この洋館の建物の中で、世界一列陽気ぐらし実現へむけての天理教教祖の教えの延長線に、外国語学校創設のビジョンが熱く語られ、その結果として天理大学の前身が誕生したからである。ゆえに、「若江の家」は天理大学の「建学の精神」を宿した、いわば建学の精神母胎としての意味を持つ。
「若江の家」は、大正5年に創刊された洋館建築の専門月刊誌『住宅』の中に紹介されているあめりか屋(大阪支店)の設計で、施工は大林組と聞いている。『住宅』は天理図書館にほぼそのバックナンバーが揃っており、表紙には寄贈中山正善氏と押印されている。洋館建設にあたって創設者はこの建築専門誌を購読し、ひそかに調査研究を進めておられたことが窺われる。筆者は後に展開される天理の宗教建築の独自的構想の原型は、創設者が置かれたこの時代における文明開化の歴史的潮流に無縁ではなかったと考えている。『住宅』を注意深く読んでいくと、当時わが国の文明開化の諸相が建築という営みを通して垣間見られ、文明開化が導入した洋館が、単なる邸宅であることを超えて、流入する新しい文化思想を運搬する入れ物であり、かつまた新進気鋭の人物が交流する場所としての役割をになっていたことが知られる。つまり、それが和魂洋才であれ、和洋折衷であれ、洋館は新しい思想の実践的決断を促し、それを受胎着床させる母胎であるかのような印象を醸し出しているのだ。
創設者は東京大学に入学するまでの2年間、「若江の家」から大阪高等学校へ通学し、当初は寝室と書斎からなる質素な日本間が2部屋があれば一学生としては十分だと言われていたらしいが、最終的に「管長公勉強室」としてこの洋館の普請を採択したのは創設者自身であったと思われる。その背景には、首都の最高学府において先輩として学び、文明開化の激流のなかに青春を謳歌した、天理教大阪教務支廰長・中山為信(1892-1961)本部員をはじめ、教祖の時代を生きた古老たちの創設者に対する強い思い入れがあったと推測される。筆者は『住宅』(大正15年11月1日発行)のなかに創設者が挿んでいたと思われるガリ版印刷の紙片を偶然見つけて、大正15年教祖40年祭(1926)直後の7月と8月に開催された一般教会長大講習会の時間割表と講演題目、そして講習会のそうそうたる講師名を知るに及んで、その思いを強くした。
天理大学は、この洋館・「若江の家」を創立80周年の記念事業として創設者記念館にすることを、遅まきながらも本年の4月に決定した。準備委員会と顧問会議も追って設置されたが、2005年の80周年まであとわずか2年もない。私たちは修復再現を正確にするために、建築図面を探しているが、設計を担当した大阪のあめりか屋はすでになく、移築を担当した天御津組も現存していない。また施工主の大林組に問い合わせても、該当する図面を発見することができないでいる。レトロな内装やオリジナルな照明器具については、竣工当時や移築以前の写真を見つけるしか方法がない。そこで読者のなかで、屋外屋内を問わず、「若江の家」の写真をお持ちの方があれば、是非ご教示頂きたいと思う。
関西の私立大学では大学間の生存競争が激しくなる中、歴史的な建学のシンボルとなる洋館の保存修理が相次いでいる。それは「建学の精神」をもう一度思い出そうとの意味があるようだとした解説記事を日本経済新聞夕刊(2003.5.24)が写真入りで紹介している。「欧米では古い建物が残るキャンパスの雰囲気に引かれ、観光客や地域住民が集まる。日本でも建築物を通じて各大学がアイデンティティーを見直す作業が始まっているのではないか」とは、建築構造学が専門の京都大学の西沢英和講師のコメントであった。天理大学もいま「若江の家」を通して、どこまで真剣にその「建学の精神」に接近できるかが厳しく問われている。
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by inoueakio | 2003-01-03 16:41 | 巻頭言集
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