2003巻頭言1~3月号
2003年1月
 「レンタルの思想」とかしもの・かりものの教理

限りなく富を追究して膨脹する人間圏と、それにともなう地球環境破壊の問題を解決するための考え方として、最近注目すべきものに「レンタルの思想」というのがある。レンタルとはレンタカーのレンタルであるから、「レンタルの思想」を一言で言えば「借りものの思想」ということになる。比較惑星学者・松井孝典東大大学院教授などが提唱する「地球学」の骨子をなす新しい考え方であるが、この先端科学が生み出した思想には、天理教独自の伝統的自然観と身体観に通底しているところがある。
人類は悠久の歴史の中で豊かになるということを追究して生きてきた。そして、豊かになることは人間にとって具体的に物を「所有」することを意味した。しかし、いまこの豊かさの意味が人間圏の危機の中で問われている。つまり、人間の物に対する「所有」欲が現在のスピードで増幅すれば、人口増加や生産消費の拡大率の異常さの中で、人類は後100年も存続し得ないであろうと言われる。つまり、物の「所有」いうことについて考え直すことが求められているのである。この物の「所有」に対するアンチテーゼとして、「借りもの」という思想が科学の領域から突如として飛び出してきた。
松井教授は、我々が生きていくにあたって必要としているのは物(製品)ではなくて、その物(製品)の「機能」だけであり、自分の「所有」と思っているからだも、実は物として地球から借りているに過ぎないと述べる。借りた物から各種の臓器がつくられ、その臓器の「機能」を使って私たちは生きているのだという。その「機能」を使うということが生きるためには重要なことであって、人間のからだそのものが物として意味があるのではない、死ねば地球に返るだけだとも述べる。
物それ自体が重要なのではなく、「機能」が重要だというこの地球学者の主張は、自然の「機能」や自然の一部である人間の身体の働きは、神の守護の配下にあり、人間のからだは神からのかしものかりものであるという教理に通じている。「レンタルの思想」が科学の領域の中で自ずと限界を見せるのは、その借りた物の貸された目的の欠落であり、その「機能」の目的に反する使い方を戒める具体的倫理や道徳の不在である。しかし、このあらたな思想のインパクトは宗教的にも強烈なものがある。
かえりみれば近代の自然科学は、二元論と要素還元主義から成り立っていた。前者は、人間が自然を認識する主体であり、自然は人間に認識される客体であるという考え方である。後者は、宇宙全体を理解するためには、それを構成している部分を組み合わせたものが全体であるという考え方である。しかし、量子力学の分野において、たとえば観測する主体の行為が、認識しようとする素粒子という客体に影響を及ぼしていることが分かり、主体と客体が分離しているという考え方の前提が崩れてしまった。また、認識された部分の足し算で物質の全体像が理解されるという考え方も破綻した。自然全体を理解するためには、その部分を単純に足し算すればよいとは認められない自然の複雑さがつぎつぎとわかってきたからである。そこから複雑系と名の付くさまざまな学問が誕生した。
そこで21世紀の科学においては、二元論と要素還元主義の限界をいかにして超えるかということが問題となってきた。その方法として松井教授は、注目すべき二つの議論を展開している。一つは、自然・宇宙の構成要素は、互いに関係をもってつながった一つの系であるとして全体を説明しようとするシステム論であり、もう一つは、自然は宇宙の歴史を記録した古文書であるという見方である。つまり、氏はわれわれは知的生命体として知の体系を創造しているのではなく、自然の中に書かれている「古文書」を読んでいるに過ぎないと主張する。この立場に立つと、知の体系が拡大し、自然がより総合的に解釈できるのは、自然を解読する道具が時代と共に効率よくなっているということに過ぎないということになる。この考え方は、自然を神の身体、道具を教理解釈という言葉に置きかえれば、限りなく天理教の教えに近い考え方であろう。自然を「古文書」として読むということは、神の身体である自然を成り立たせている機能と働きを解読するということに他ならないからである。また前者のシステム論は、個と全体をつなぐ「グローカル」な考え方とも言えるだろう。
教祖はひながたの道の初期において、徹底した施しや母屋の取りこぼちなどを通して、物の「所有」を否定されたように思われる。また、私たちが生きるために必要な物は神からの恵みであり、人間のからだは物の中でもその個人の魂に貸されたいのちの所在であり、からだの機能は魂に与えられた人間の心が使用する道具(陽気暮らしを目的とした)であると教えられた。松井教授の「レンタルの思想」は、一種の理神論を想起させるが、かつてそれが17、18世紀においてヨーロッパの啓蒙主義に強い影響を与えたように、21世紀の人類の欲望を制御できるあたらしい思想として広く受け入れられることを祈りたい。


2003年2月
スペースシャトル「コロンビア」の空中分解に思う─「宇宙地獄」と「地球極楽」─

1967年のこと。アポロ1号が秒読みの実験中、電気系統の故障で火災が起き、宇宙飛行士の3人が船内で焼死した。そのためにアポロ計画は一年延期された。しかし、この事故の徹底した糾明がなかったならば、その後の人類の月面着陸は不可能であったといわれる。つまり、焼死した宇宙飛行士は、アポロ計画成功のために人柱になったというわけだ。今回のスペースシャトル「コロンビア」の空中爆発は、進行中の国際宇宙ステーション建設にいかなる教訓を残すか。
1986年「チャレンジャー」が打ち上げ直後に空中分解を起こした。今回の「コロンビア」の空中爆発は、帰還直前の事故であった。いずれも宇宙飛行士の家族が空中分解の現場を見上げているだけにその悲惨さは増す。「チャレンジャー」の教訓が生かされていなかったというNASAへの風当たりは強い。その極めつけは、『タイム』誌2月10日号のNew Republicの編集者G. イースターブルックが鋭く迫った「スペースシャトルは中止せよ」(The Space Shuttle Must Be Stopped)という読み応えのある記事であろう。サブタイトルでは、スペースシャトルは非経済的で、時代遅れ、非現実的、そして今回再び学んだように命取りであると決めつけている。テキサス州で散乱した飛行士の遺体を目撃した子どもたちのショックは、『ヘラルド・トリビューン』紙2月5日の記事に生々しく描写されているが、読者に宇宙飛行における目をおおわせるような事故の無惨さを突き付けずにはおかない。
「未だ、宇宙で死んだ宇宙飛行士はいない」と立花隆氏は『宇宙からの帰還』で述べている。「ソ連では帰還時の地上激突死1人と窒息死3人を出しているが、窒息死は大気圏再突入時の事故である。大気圏はむろん宇宙ではなく、地球の一部である」というわけだ。しかし、これは何かの間違いであろう。旧ソ連宇宙飛行士3名の窒息死は、1971年6月、大気圏外の宇宙空間におけるソユーズ11号船内で起きた。3人の宇宙飛行士が搭乗したソユーズはサリュート1号宇宙船とドッキング。 23日間宇宙に滞在して科学実験を全て終了した後、帰還船ソユーズに乗り移り、母船サリュートと切り離すため逆推進ロケットを逆噴射した。 その直後、多分積み荷重量超過などが原因の衝撃で、キャビンのバルブが開き、宇宙船内の減圧と酸欠により45秒間で3人の宇宙飛行士は死亡した(The Soviet Cosmonaut Team)。ソユーズは死亡した3人の宇宙飛行士を乗せて遠隔操作で地球に帰還し、地上では厳粛な葬儀が行われた。
宇宙空間は真空である。たとえ酸素を持ち込んでも、それだけでは生きていけない。圧力がかからないと、酸素が肺胞膜を経て血液のなかに浸透していかないからである。地上の気圧とは、酸素や窒素などの空気の重さで生じる圧力のことである。大気圏の中では、絶対量は低下しているにしても高度1万メートルでも酸素は存在している。しかし、気圧の低下により、酸素が体内に吸収されないのである。地表の気圧は1013ヘクトパスカルである。それが48ヘクトパスカルまで下がると、人体の体温は沸騰点に達する。実に人体の7割は水分であるから、沸騰点に達するとそれがガス化して、全身から血液や蒸気が吹き出し、人体は風船玉のように膨れあがって崩壊、飛散する(津田幸雄『重力の思想』)。また、宇宙飛行士の土井隆雄はコズミックカレッジで、人間が普段着で宇宙に出ると、約20秒で干からびてミイラになると言っている。こういう現象が起こるのは、高度1万9千メートルからだ。気圧がなければ、酸素マスクをつけていても、人間は絶対に生存できないのである。大気・気圧は地球全生命のシェルターである。したがって、大気のない空間は、人間が沸騰する「宇宙地獄」であって、天国ではない。
数多くの宇宙飛行士は、無重量空間の生活も慣れてしまえば、実に快適であると表現している。しかし、宇宙船内は実は宇宙ではない。地球の「酸素」、「気圧」、「温度」といった地球環境を船内に持ち込んだ空間に過ぎないものである。快適なのは宇宙空間につくられた地球環境の方なのであった。宇宙に持参しなかったのは「地球の重力」だけである。アポロ12号で月面着地したアラン・ビーンは、筆者にその体験を語ってくれた。月面では全く何も動いていないし、何も聞こえない。月世界から太平洋に帰還・着水して一番うれしかったのは、水が動き、風が吹き、音が聞こえることであると言った。そのまさに当たり前の意味で、地球は人間にとって極楽である。宇宙空間や月それ自体は、人間にとっては実は地獄なのであって、地球圏外に脱出して、はじめて人間は本当にこの「地球極楽」を知ったのである。
「ここはこの世の極楽や」、「地と天とは実の親。それより出来た人間である」と教えられる。宇宙開発を可能にした先端科学技術は、シャトル計画の失敗を通しても、「この世」とは、「今生」を指すばかりでなく、宇宙の中での母なる惑星「地球」という場を指すことを教えてくれた。今回の事故も、あえて科学技術の失敗が宗教的真実の覚醒を促した一例であると前向きに解釈したい。

2003年3月   
「からだことば」と天理教用語

『文藝春秋』3月号が「日本語大切」という特集を組んでいる。堺屋太一は−「カタカナ外国語」は亡国の道−という一文を寄せ、外来語を日本語訳に出来ないこの国の現在の知的衰退力を憂う。また3月19日のNHKテレビニュースによれば、年間500語のカタカナ語が増え、政府各省庁の白書を国立国語研究所が調べたところ、5000語以上のカタカナ語が使われてたという。一方、立川昭二と養老孟司は−「からだことば」って何?−という文春の対談で、ことばからからだが抜け落ちていく事例を挙げながら、このままではからだは文化性を失い、ついには人間性を失った得体の知れないものになっていくのではないかと心配している。
先端科学技術や国際政治が次々と生み出すことばに日本語の翻訳が間に合わない。連日新聞の見出しにもカタカナ語が飛び交う。ことばは知的努力の集積であるから、日本語が衰えているとすれば、この国の知的努力が減退していることだ。実際、この20年ほどの間、ことばを操る知的作業者の努力不足は目を蔽いたくなるほどだと堺屋は嘆いている。同感である。
「からだことば」は、日本語からだんだんと消えつつある。立川は医学部の一般教養の講義で学生に「血」のつくことばを書かせたところ、「血液」「血管」「血圧」「血糖値」など医学用語ばかりで、「血縁」「血族」「血色」「血潮」といったことばが出てこないことをなげいている。つまり「血縁」ということばが浮かばないのは自分が、祖先、親、兄弟と血でつながっているという感覚が薄れてきている。せめて「血色」ということばぐらい挙げて欲しい。コンピュータの数値ばかりを気にして、患者の顔色を見ることを忘れる医者が出てこないかと心配だという。喜怒哀楽の表現も、たとえば最近は「腹が立つ」「断腸のおもい」という「からだことば」は消えて、「頭に来る」「ムカつく」「キレる」という感覚語が頻繁に使われるようになった。つまり、からだの実体がだんだん遠ざかり、最後に抽象的な薄っぺらい感覚だけが残ったというわけだ。このことは平行して「かりもの」であるからだの意味や、その働きの実体も遠ざかっているのではないかとも考えられる。
かつての教育には、からだにしみ込ませるような「身にしみる」感覚と体験が確かにあった。養老は、教養とは「鼻につく」ものでも、「頭につく」ものではなく「身につく」もんだと言い、また暮らしの中でからだの経験が消えると、ことばも失われるのではないかと言う。私たちの信仰生活のなかでも時代が変わると同じことが言えるのではないか。
筆者は最近、自分のからだを動かすはじめての経験を通して、「からだことば」の貴重な発見をした。昨年1年間を通しての日曜日は、殆ど神戸か天理でアースバッグによるシェルター建築に仲間と汗を流したのである。つまり、土に水とセメントを加えてシャベルで練りまぜる。数人で一緒に練ると「練り合う」ことになる。それを土嚢袋に入れて、建築現場まで「運ぶ」。運んだ土嚢を上からドン付きでしっかりと叩きつける。つぎつぎと土嚢の層を円形に「叩きあげ」「積み上げ」ていく。この誰でも出来る単純な肉体作業を繰り返し、約600の土嚢を積み上げ、叩き上げることによって、直径3m高さ5m近くのドームが一棟完成するのである。「叩き上げ」られたのは、実は、我が「身」であったことに気づいたのであった。
土をシャベルで「練る」には、腰を据え、力を込め、足下を見る。そして目的とする土嚢袋に煉り土を入れなければならない。気をそらすと土は土嚢袋からこぼれ落ちる。談じ合う「煉り合い」の進め方にもヒントを与えてくれる。また「理」「道」「心」「別席」などといった教語にも、「理を運ぶ」というように、土嚢を「運ぶ」という「からだことば」の動詞が使われている。「身」をもって「運ぶ」ことを体験するところから、「からだことば」の精神的意味が深まっていく。この「からだことば」の究極は、他宗教には見られない「かぐら」と「てをどり」であろう。これが勤められるとき、からだがことばになり、ことばがからだになる。からだとことばが合体し、二つ一つになり、それが交叉するところから不思議な意味がほとばしり出るのである。
教語には「からだことば」が数多く見られる。その極めつけはたとえば「身」ということばだろう。「身上」「身の内」「身の障り」「身に掛かる」「身が迫る」「身につく」などにみられる、「身」という「からだことば」は、単なる「身体」という生理的な次元を超えて、精神の領域にまでその意味を延ばしていると理解されねばならない。「身」は英語のbodyとは異なり、時として「身を入れる」というように心(mind)を指すときもある。したがって「身」の訳語は存在しない。そもそも大和ことばの「み」とは非常にひろい意味を持っていて、それは「実」であり「肉」であり「味」でもあったのである。
市川浩は『〈身〉の構造』の中で、「身」の透徹した解析を行い「〈身〉は、単なる身体でもなければ、精神でもなく−しかし時としてそれらに接近する−精神である身体、あるいは身体である精神としての『実存』を意味するのである」と述べ、「われわれが生きている〈人間的現実〉を指し示すことばとして、〈身〉以上に適当な用語はみいだしにくいように思われる」と言っている。されば「身の内」の障りにおける「身」の場合も、単に空間を占める一身体、一個人のやまいにとどまらず、神の手引きとしてその黙示的意味は限りなく広く、深遠であると言わねばならない。
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by inoueakio | 2003-01-04 16:32 | 巻頭言集
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