2002年巻頭言7~12月号
2002年7月 
サッカーW杯熱狂の彼方に見えるもの

サッカーW杯は、日本の決勝トーナメント進出によって日本列島を興奮の渦に巻き込んだ。テレビの視聴率は68%という驚異的な数字を示した。日本の新聞も全紙がスポーツ紙面化し、報道も競技化して、一般読者がいままで耳にしたこともない外国選手の大写しカラー写真をきそって載せ、無駄使いも甚だしいと思われる程にその名前が大きなカタカナ文字で紙面に踊っていた。もっと他に重要なことが私たちにあるのではないかと考えていた読者も32%以上はいたのではないか。
一方、サッカーW杯にわいた韓国がその「後遺症」に悩まされている。国民はまだ興奮状態で仕事に手がつかず、自動車最大手の現代自動車も6月の生産台数は5月に比べて半減したといわれる。W杯によるこういった損失は約450億円以上で、W杯が経済効果に結びつくというのは安易な錯覚であり、国家イメージの向上と経済効果とは無関係であったという(『朝日新聞』7月8日)。また、「W杯の経済効果」などの論文で知られる英国のステファン・ジマンスキー氏は、過去28年間のW杯開催国の経済を見ても開催年の経済成長はマイナス2%強で経済効果は全く出ていないと述べている(同7月3日)。
サッカーといえば、テレビ観戦中にオフサイドもいちいち説明してもらわねば分からない自分であるが、どうしたわけかドイツとブラジルの決勝戦だけはテレビの前に座って見てしまった。しかし、その試合の退屈さ加減にうとうとしはじめ、目が覚めたときには試合は終わっていた。ラグビーの世界レベルの試合と比べると、全体にサッカーの試合は単調に見える。天才プレーヤーと賞されるマラドーナもW杯について、「決勝トーナメントは平凡で、決勝戦もすばらしいものではなかった。ドイツはかつて見た中で最悪のドイツチームだった。ブラジルは個人の寄せ集めで、チームとはいえなかった」と評価しているのを知って(同7月2日)ひとりうなずいた次第である。文化的にも内実的にもサッカーを同化出来ていない筆者などには発言の資格はないが、決勝戦を退屈と評したサッカーファンや、マラドーナに反論できる批評家はいたのだろうか。
毎年数ヶ月はサンパウロにいるというサッカー批評家としても知られる文化人類学者・今福龍太は、サッカーへの愛がブラジル人の魂の最も深い部分で彼らの日常的な感情の統合を形成しているという。そこでつぎのように述べる。「日本人の多くが、その国家的帰属ゆえに形式的に日本チーム(の勝利)を応援するのとは決定的にちがう何かが」ブラジルにはある。つまり、「彼らはブラジル国民であるからブラジルを応援するという自動的・無自覚の関係を突き破るために、ブラジル・サッカーのなかに人間としての日常の美学と倫理をたえず厳しく求めつづける」。そして、W杯の決勝戦では「失点への不安という抑圧を振り切って、遊技的で美的な強度をもったゴールを追究しつづけた今回のチームが、ブラジル人の生きる愛と情熱を奮い立たせたのも当然であった」と解説する(同7月2日)。ここには集団陶酔的なナショナリズムを超えたサッカーの姿がある。その姿はまさにブラジルのサッカー文化が国家を超えたグローカルの地点に精神的にも到達していることを示している。本当のサッカーの魅力は、この美学・倫理的な領域にあるのであって、それは本来スポーツが持つ深い人間性に根ざした宗教的な要素にも底辺において繋がっていると思われる。

2002年8月
天理エコモデル・デザイニングセンターの実験

おやさと研究所では、杣之内町に天理エコモデル・デザイニングセンターなるものを立ち上げた。太陽熱、水力、風力、地熱(「火水風土」)といった自然エネルギー利用のモデル実験や、いま世界で注目されているエコロジカルなアースバッグ(土嚢)によるシェルター建築、ビオトープの造成などを通して環境問題を総合的に学ぼうというわけである。
センターはわが国最古の道である山辺の道がすぐ東側を走る歴史風土にめぐまれた場所に位置している。西方に隣接して以前合掌造りの家が二棟保存されていたが、いまは台湾より移築されたパイワン族の首長の石造りの家のみが残っている。そこに建てられたシェルター2棟の方位と内部構成には、京都大学で博士号を取り、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)の運営委員長を勤める俊英建築デザイナー渡辺菊真氏によって、聖俗の象徴的表現がほどこされ、それを取り囲んでいる壁面は南側につづくビオトープの存在を意識して設計されている。
またセンターの北東の隅には、シェルターに隣接して井戸が掘られ、その沸き水は風力やソーラー発電から得られた電力で汲み上げられて、ビオトープに流される。水路には、泥土を固めて造られたコーブ(cob)状の素材を用いた独自の彫刻を考案中である。ゼロエミッションのモデルとして屡々広範囲に利用される自然素材・竹の造形的デザインもセンター構成の美的視野に入っている。陶芸用の窯も造る。自然建築の主流である土嚢工法によって造られたこのシェルター建築には、アメリカより自然建築を世界各地で実践しているNGO・国境なき建築家機構(Builders With-out Borders)の代表ジョウ・ケネディ氏が来日して天理と神戸で技術指導を行った。
天理大学地域文化研究センターは、このおやさと研究所が進める、自然・大地に還る天理「火水風土」プロジェクトの地域版として、地震被災地である神戸市長田区庄田町の一画を市から借地し、同じく地震被災地であるアフガニスタン救援を意識した、「神戸アフガニスタン友好交流公園」のためのアースバッグによる建築を行った。作業は5月初旬から7月7日までの毎日曜日に、日本インド国交復興50周年を記念し、センターの理念の国際的実現を目指して本年度インドに派遣される天理大学学生や、地元のNGOなどが協力した。その主旨や経過は新聞でも紹介されてきたが、テレビでは朝日放送が7月7日に現地取材とインタビューを行い、7月9日「ニュースゆう」という番組において解説を含めて放映した。
アメリカで開発されたアースバッグ工法は、明治の左官職人・服部長七が開発した土と消石灰を水で練り、たたいて締める「人造石工法」に似ているところがある。長七が開発した工法は「長七たたき」とも呼ばれるが、世界遺産・アンコールワットの遺跡修復でも、強度はセメントの4倍といわれる常温で固めた「人造石工法」が、同遺跡の石造寺院バイヨンの修復を受け持つ日本政府アンコール遺跡救済チームによって採用されている(『朝日新聞』1998年7月10日)。
経済効率を追い求める現代の生産活動の世界に、忘れ去られていた伝統工法が見事に復活したのである。センターの床面も長七の「人造石工法」で叩き上げ、わが土嚢工法が世界の被災地でよろこばれるよう、製作に向けて、ふやけがちな精神をたたき締め上げていきたいと考えている。

2002年9月  
農地を潤すチェックダム─水源確保インド報告

『National Geographic』9月号は「世界の水不足」をテーマに地球環境特集を組んだ。南アフリカのヨハネスブルグで開幕した「環境・開発サミット」を意識しての特集である。洪水と干ばつといった両極端の気候変動をもたらす地球温暖化の原因と実体をさまざまな視点から検証し、問題解決に向けて地道に努力している人たちの活動も紹介している。
世界人口の約8割はアフリカをはじめとする途上国に生活している。しかし、その所得は世界の2割を占めるに過ぎない。一方水不足は貧困層の拡大をもたらしている。その原因は温暖化だけではなく、先進国主導の経済のグローバル化にもある。そこでヨハネスブルグ会議最大の焦点は、水やエネルギーの安定した供給を通して、20億人といわれる貧困・飢餓に喘ぐ人々をいかに環境保全に添った施策で解決するかであった。
幸い日本では国内の水は足りている。しかし、世界では水質汚染や水不足が深刻である。そこで水不足の深刻さを実感し、水のありがたさを学ぶためにも、天理大学地域文化研究センターは昨年からの「国際参加」インド・プロジェクトを引き継ぎ実行する。昨年の夏、インドのグジャラート州ジャムナガール市の地震被災地において、学生と現地のNGOの協働で20mほどのチェックダム(堰)を完成した。先月その現場を調査するために訪れた。モンスーンであるにも関わらず今年は雨が降らず、チェックダムが昨年雨水を堰き止めて出来た広大な貯水池は完全に干上がっていたが、周辺の土地は見事に緑の畑となり農作物がゆたかに育っていた。
バラチャディ村では、私たちが協働してつくった堰を始めとして、同規模のチェックダムが7基完成している。天理教国際たすけあいネットやベルギーのNGOなどの寄付によって造られたものである。それぞれの堰に隣接する土地には、深さ8mから50mあまりの井戸があちこちに掘られている。地下水をポンプで汲み上げ散水するのである。雨が十分に降れば貯水池にたまった水を生活用水や家畜、そして潅漑に利用できるだけではなく、貯水池の底から地面に深く染みこんだ水が干上がった井戸を再び満たすようになる。この水の恩恵を受けて地平線の遙か彼方までピーナッツや胡麻、綿花、粟、稗などの畑が続いていた。加えてうれしいことに、今年もボランティアとして出かけた天理大学生有志のアースバッグによるボンガの建築作業に協力した農民たちが、同じようなシェルターを収穫用の倉庫として造りたいと言いはじめたことである。
バラチャディ村でダムを管理しているV.P.デブバさんの話によれば、雨水の95%が近くのアラビヤ海に流れてしまうと言う。それを堰き止めるために小型ダムをつくることは私たちの経験から言っても技術的にさして難しい事ではない。20m級のダムなら50万円余りで出来上がる。急激な人口増加による食糧需要が増え、世界はさらに貧困層を拡大していくであろう。農地用水のため潅漑が無制限におこなわれれば、河川や湿地や湖沼が今以上に干上がる恐れがある。そこで大地を潤すには天から授けられる膨大な雨水を、より効率的に活用することが大切だ。灼熱の広大なあの天竺の農地に立って、このようなことを考えていると「またゝすけりうけ一れつどこまでも いつもほふさくをしゑたいから」(ふ12:96)と仰せられるお言葉が思い起こされた。来年度のインド・プロジェクトの継続・拡大が期待される。

2002年10月   
現代の「谷底」・アフガニスタンから見えるもの

米同時多発テロを受け、米軍がテロ組織根絶を目的にアフガニスタン攻撃を始めてから10月7日で1年経った。タリバン政権は1ヶ月で崩壊し、米国や国際社会が後ろ盾となってカルザイ大統領を軸に暫定政権が新たな国造りを始めている。しかし、ビン・ラディン氏やオマール氏の消息は依然として闇の中で、散在するテロ組織アルカイーダの掃討は先が見えない。地方軍閥の抗争は深刻化し、統治能力に疑問符が打たれるようになったカルザイ政権の前途には、一層の政情不安と治安悪化の泥海が予測されるようになった。
先月、国連UNITARのミッションの一員としてカブールとカンダハールを視察に訪れた筆者は、治安の安定と復興推進に向けて、その前途を阻む材料が余りにも多いのに愕然とした。23年間に及ぶ戦争の被害に加えて、アフガン史上未曾有といわれる4年連続の大干ばつ、相次ぐ地震による災害の後遺症は、再建に求められる人材の圧倒的な不足もあって、現代の「谷底」そのものを呈している。
世界たすけと「谷底」せり上げを教祖ひながたの道の原点とする天理教は、その事情の中からどのような神の声を聞こうとするのか。100年前と違い、地球全体を覆う情報網を通して世界の出来事が瞬時にして私たちに届き、それを知ってしまった限り、それを架空の出来事として捉えることは許されないと人道主義者は言い、数多くのNGOが危険を冒してアフガニスタン再建に取り組んでいる。絶対倫理からすれば、苦しむ人がいると言うことを知った人間には、それを助けるという義務が生ずるというわけだ。
おふでさき17号のおわりで「月日にハせかいぢううハはみなハが子 かハいゝばいをもていれども」「それしらすみな一れつハめへ  に ほこりばかりをしやんしている」「この心神のざんねんをもてくれ どふもなんともゆうにゆハれん」「いまゝでのよふなる事はゆハんでな これからさきハさとりばかりや」と教えられる。つまり、おふでさきを読むと言うことは、その先また個々の信仰者に強く要請される悟りによって開かれた独自の精神世界が現れ出てこなければならない。このように考えて、このお言葉をアフガニスタンに重ね合わせると、教史における明治16年の大干ばつによる雨乞いつとめの深刻さも、一に百姓たすけたいと仰せられる教祖の親心も、「高山」に対する「上たるハせかいぢううをハがまゝに をもているのハ心ちかうで」(3─124)というお言葉も、俄然2世紀の時を超えて現実化する。まことに「谷底」を知らなければ「谷底」も「高山」も真に語ることは出来ないと知ったのである。
「遊山」とは禅宗に由来する言葉として知られ、山野を歩き修業を経て「悟り」に至る道程をいう。また「谷底」を流れる渓谷に船を浮かべて、その渓流を下る船から聳え変化する「高山」の風景を楽しむ事を言う。従って「陽気遊山」という言葉は限りなく美的で流れるようなダイナミズムを持つ。しかし、現実のアフガンの「谷底」には水は流れていない。遊山の条件である「水」が不在では平和の海が視野に入ってこない。
ペシャアワール会の中村医師はアフガニスタンで井戸を掘り始めた。800基以上の井戸を掘り、600基以上から水が湧き出たという。金が無くとも水さえあれば生きていけるというアフガンの9割を占める農民を助けるために、医者が井戸を掘る。教祖伝逸話篇にも井戸の話が出てくる。誰かカンダハールで一緒に井戸を掘る人はいないだろうか。

2002年11月  
「谷底」・アフガンに見る芥子栽培と地雷

現在のアフガニスタンは、治安と経済において世界の「谷底」国家の代表であろう。30数年前地上の桃源郷ともいわれた現在のこの国のかたちは、まさにおふでさきに啓示された「たにそこ」という言葉がぴったりである。その「谷底」は、20数年間に及ぶ「たたかい」によって形成されたものであるが、その極めつけは、9・11米同時多発テロの「うらみ」の爆発とも、報復「かえし」ともとれる米軍が投下した約1万8千発の爆弾やミサイルの「てんび火のあめ」であった。また、復興「ふしん」を阻む1200万個以上といわれる未処理の地雷、増加の一途を辿る芥子栽培の複雑な事情が、その「谷底」の「もよふ」をさらに険しいものにしている。「このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや」「こらほどの月日の心しんバいをせかいぢうハなんとをもてる」(6─116、117)というおふでさきの言葉が一瞬に浮上して、我が身にするどく迫ってくる。
『地雷撲滅をめざす技術』(下井信浩著)によれば、世界の紛争地域に未処理のまま埋設され、現在も放置されている地雷の数は約7000万個といわれる。
また、対人地雷による被害は22分に1人の割合で起こっている。何故地雷なのか。ベトナム戦争では、直径7センチメートル、重さ150グラム、価格が1ドル程度の対人地雷が使われた。この金属探知器に探知され難いプラスチック製の地雷は、致命的な殺傷力を持たず、大人の片足程度を飛散させるように設計されている。負傷者を死に至らしめず、負傷による痛みと苦しみによって兵士たちの士気を低下させ、負傷者を担架で担ぎ、看護する健常者の数を戦場から奪うことが可能だからだ。
地雷による負傷者は身体障害者となって生存し、治療や生活保障のための出費は対戦国の大きな経済負担となるから、厭戦気分を起こさせるのに効果があるというわけだ。筆者は22年前、ペシャワールの難民テント村の野戦病院を薬をもって訪れたことがあり、今回もカブールやカンダハールの人混みの中で片足の人たちをあちこちで目にした。地雷は非戦闘員である女性や子どもたちを殺傷するばかりでなく、地雷を埋没された土地は、復興にとって最も大切な農地を使用不可能にし、森林や河川への立ち入りを困難にする。
「谷底」からの「よなおり」と「ふしん」を拒むものは、地雷や地方軍閥の跋扈だけではない。もう一つに芥子栽培という大きな問題がある。大麦は1キロ40セントでしか売れないが、芥子は300ドルで売れる(「大豊作」The Economist 11月12日号)。また5年続いた大干ばつに加えて、芥子栽培にとられる水は膨大な量となり、その地域の砂漠化は進み、津波のような砂に5メートルも土の家が埋まってしまったという話もある(「芥子がもたらす旱魃」TIME 10月21号)。
1999年、アフガニスタンは全世界で6000トンともいわれる芥子栽培の75%を産出している(L. P. Goodson, Afghanistanユs Endless War )。カルザイ政権は10年計画で芥子栽培を全面廃止するという。その目的を達成するには、400万人といわれる芥子依存農民のために、代替作物を開発しなければならない。無理矢理に芥子栽培を禁止すれば、400万人が国内難民となり、犯罪も増える。問題を根本的に解決するためには、芥子そのものを輸入し、ヘロインに精製し売りさばくメカニズムを断ち切らなければならない。国連や関係諸外国はどうするのか。

2002年12月      
拉致問題と「グローカル」マインド

一時帰国した北朝鮮の拉致被害者を約束通り戻すべきか戻さざるべきかで、日朝交渉が暗礁に乗り上げている。帰国後の5人の被害者に、新聞、雑誌やテレビの報道陣がどっと押し寄せ、その一挙手一投足、ついには朝食のメニューまで公開されているほどだから日本人で関心を持たぬものは誰もいないのであろう。
「食料危機でお金が欲しい北朝鮮は、強く出れば必ず譲歩する」という勇ましい識者もいるし、核ミサイルを隠し持つ北朝鮮が相手であるから「政府が5人を戻さないと決めた時、背筋にゾッとするものを感じた」という慎重派国会議員もいる。前者は傲慢、後者は臆病と決めつけられるのであろうか。
拉致被害者個人の幸福は、子どもたち家族と共に住むことであろう。しかし、国家全体を優先する外交的効果は、そのことによって否定されるという政治の歴史的現実がその背景にある。戦時におけると似たような国家と個人の関係をめぐるさまざまな論理が政治の中でもいま静かに働いている。
とりわけ宗教者にとっては、その教えの解釈に従って、個の優先か、全体の優先か、個人の幸福か、全体の幸福かが問われている。当事者と客観者ではその意見が分かれるだろう。前者からは、当然のこととして情の世界に力点を置いた判断が導かれるであろうし、後者は、個人の情を可能な限り排して、全体の利害を考えるだろう。
政治家の中には、個の情を私人として理解しながら、メディアが加速させる集団の情の渦に巻きこまれる危険に気づいている者もいるであろう。両者が救われる理と情の中庸を極めることがむずかしいのである。
このように問題を絞っていくと、宗教者は現実の国際紛争に見られる世界の宗教間対立の問題だけではなく、宗教と政治が本来もつ哲学的な問題が、個の内面からも問われているということに思い至らねばならない。
考えてみれば、拉致問題は、臓器移植の賛否両論をめぐる生命倫理の問題とも共通点を持っている。つまり、国際政治においても、生命倫理においても、その問題の根底に、個と全体、ローカルとグローバル、特殊と普遍の緊張関係が存在しているのである。
ここにおいても二者択一ではなくて、両者を包摂する考え方、グローカルな「二つ一つ」の知恵が求められている。
サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』の中で、インドの学者の言葉を引用して、アメリカの罪はその「パワー、傲慢さ、強欲さ」であると言った。フィリピンの政治家は、ハワード豪首相の東南アジア諸国のテロ組織への先制攻撃発言は「極めて高慢だ」と反発している。イランのラフサンジャニ前大統領は、イラクと石油の問題にふれて、「米国が高慢な政策を止めるなら、両国が協力することが可能だ」と述べている(『朝日新聞』12月3日)。南北問題に加えて、現代が「傲慢」化する「高山」と、極貧化する「谷底」に両極化される方向にあるのならば、21世紀は「高慢」が支配する「埃」(ほこり)の時代となるであろう。
「世界が鏡」と教えられる。世界が「高慢」の心使いで彩られているのならば、それはたちまち個々人の内面鏡としての胸の内に、「高慢」という「埃」が積もっていると気づき、問題の原因を「高慢」のほこりに収斂して、それを払う魂のきびしい錬磨が要請されている時代が到来したとも言える。
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by inoueakio | 2002-01-01 16:29 | 巻頭言集
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