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巻頭言集第四巻-2
「グローカル天理」巻頭言集 第四巻 5月号
劣化ウラン兵器とクラスター爆弾の恐怖

 ヨルダンの首都アンマンの国際空港で毎日新聞の記者が所持していて爆発した物体は、クラスター(集束)爆弾の子弾だった可能性が出てきた。クラスター親爆弾には数百の子爆弾が詰め込まれ、上空千mくらいで飛散し、落下の瞬間に爆発する。戦車などの4_フ装甲板を貫通する能力があるといわれるが、その1割前後は不発弾として残り「第2の地雷」と呼ばれる。アフガニスタンやイラクでは戦後も民間人の被害が拡大している。

 筆者はこの3月に視察したカブールの「地雷除去・アフガン復興機構」が管理・経営するオマール(OMAR)兵器博物館で、使用済み現物の説明を身近に受け、クラスター爆弾にも劣化ウランが使われているのではないかと感じた。この博物館には、アフガニスタンなどで使用されたさまざまな地雷や爆弾、ミサイルなどの兵器が展示されている。各国の外交官や国連関係者、そして兵役に従事する人たちが、カブールに赴任すると必ず訪れるところだという。毎日新聞の記者もここを前もって訪れ、兵器についての基本的な知識をもっていたならば、今回のような悲惨な事故は未然に防げたであろう。機上で爆発していたらと想像すると、その可能性は否定できないだけに、武器に関する無知は犯罪に近いと言われても仕方がない。なにしろ子弾をキャッチボールして遊んでいたと言うから驚きである。各新聞社は戦地に派遣するジャーナリストに武器についての基礎知識を義務づけるべきだろう。

 「悪魔の金属」といわれる劣化ウラン弾は、1991年湾岸戦争の時にはじめて米軍が使用した。「劣化」という名称は危険性がなくなったという意味では決してない。原子力発電所の放射性廃棄物から造られるれっきとした放射線物質である。体内に取り込まれればガンを引き起こし、重金属としての毒性を合わせもつ。アフガニスタンでは約700トンが使用された。また湾岸戦争では、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が述べ11万回の出撃で、8万8千トンの爆弾を投じて、42日間で15万人から30万人が殺されている。このときイラクの地に劣化ウラン弾の微粒子が3百万トンもばらまかれた。その量は広島の放射性微粒子の1万4千から3万6千倍に相当すると言われている。戦争後も空気、水、大地に残留したウランを市民が取り込み、ガンや白血病、死産、流産、奇形をもたらし、従軍した兵士やその子どもたちにも被害が広がっている。

 イラクの南部最大の都市バスラでは、1988年の記録によると白血病とガンによる死者は34人であったのが、湾岸戦争5年後の1996年では219人、2000年には586人に激増している(『PEN』第357号)。またイラク政府によれば、イラク全土では1990年以来子どものガンは5倍、生殖器異常出産と白血病は3倍に増加し、イラク国民全員ではガンの増加は38%となっている(『世界』5月号)。劣化ウランの半減期は45億年といわれるので、この数字が劣化ウランによるものとすると、イラクは永久的にこの病魔にとりつかれることになるわけだ。

 このような「湾岸戦争症候群」に関しては、劣化ウランとの因果関係は証明されていないというのが米国やわが国の政府見解である。しかし、5万件にも及ぶウェブ上の関連情報の数件を読むだけで、劣化ウランが原因であることは近く科学的に証明されると思われる。そのとき、使用者は戦争犯罪者としてその責任をきびしく問われなければならない。英国防省は4月24日、両者に科学的因果関係は明らかでないと一方で主張しながら、イランから帰還する兵士に劣化ウランの体内への影響を調べる尿検査を実施すると発表した。わが国では、クラスター爆弾が北海道の自衛隊基地にもあり、沖縄の嘉手納米軍基地にもある。防衛庁長官はわが国自衛のために有効な武器として、その存在価値を認めている。

 核廃棄物である劣化ウランは、長年ネイティブ・アメリカン居留地などに野積みにされていて、米政府の頭痛の種であった。国防総省がこれに目をつけて、軍需産業に1トンあたり1ドルというタダ同然の値段で売却したといわれている(『世界』5月号)。貫通力が格段に優れた兵器の材料となるだけに、それは「魔法の金属」とも呼ばれる。その核兵器を多量に持っている米国が、コソボや、核兵器やテロ集団をかくし持っているだろうという国を怪しからんとして、正義と自由の名の下に非戦闘員をも殺害してきた。
 
 いま北京を中心として猛威を振るっているSARS(重症急性呼吸器症候群)の死亡者は5月15日現在で600人を超えた。SARSと劣化ウランやクラスター爆弾は「拡散」するという点で共通しているが、前者はウィルスによる一時的伝染であり、後者は兵器を使った半永久的殺戮である。悲惨さでも共通しているが、後者にはおろかな「高山」の人間の意志が強烈に関わっているだけに腹立たしいこと極まりがない。その象徴であるブッシュ大統領が、ことにあたって擬似宗教的発言を繰り返すのには、こころあるクリスチャンは心底あきれているのではないか。




「グローカル天理」巻頭言集 第四巻 6月号
「若江の家」と文明開化

 嘉永6年(1853)米国対日使節ペリーの来航により、日本の長い鎖国は解かれた。その後欧米の文物が急激に流入し、わが国は急速に西洋化・近代化した。明治前半期にはその文物の輸入が国策として大々的に行われたが、その西洋文明を積極的に取り入れた現象を文明開化という。文明開化を象徴するものには、散切頭に洋服、ランプに牛鍋、鉄道や蒸気船などがあるが、数多くのいわゆる洋館という特異な建物も、見逃すことができない文明開化の産物であった。中央の官庁をはじめ、学校、駅舎、銀行、ホテル、そして個人の邸宅といわれる大きな和館・洋館などに見られる建築様式は、日本の木造建築とは異質な技術と材料を採用したものからなり、日本近代建築史のなかでは、日本の伝統的建築と近代建築の狭間に出現した特異な建物といわれる。

 天理大学構内に建つ大正13年に竣工した「若江の家」は、この文明開化がもたらした象徴的・歴史的建物として位置づけられる。当初、中山正善天理教「管長公勉強室」として、大阪の若江岩田にあった天理教大阪教務支庁境内に建てられたが、昭和30年天理大学の前身である外国語学校創設の30周年を記念して現在の位置に移築された。その理由は、創設者が述べるように、この洋館の建物の中で、世界一列陽気ぐらし実現へむけての天理教教祖の教えの延長線に、外国語学校創設のビジョンが熱く語られ、その結果として天理大学の前身が誕生したからである。ゆえに、「若江の家」は天理大学の「建学の精神」を宿した、いわば建学の精神母胎としての意味を持つ。

 「若江の家」は、大正5年に創刊された洋館建築の専門月刊誌『住宅』の中に紹介されているあめりか屋(大阪支店)の設計で、施工は大林組と聞いている。『住宅』は天理図書館にほぼそのバックナンバーが揃っており、表紙には寄贈中山正善氏と押印されている。洋館建設にあたって創設者はこの建築専門誌を購読し、ひそかに調査研究を進めておられたことが窺われる。筆者は後に展開される天理の宗教建築の独自的構想の原型は、創設者が置かれたこの時代における文明開化の歴史的潮流に無縁ではなかったと考えている。『住宅』を注意深く読んでいくと、当時わが国の文明開化の諸相が建築という営みを通して垣間見られ、文明開化が導入した洋館が、単なる邸宅であることを超えて、流入する新しい文化思想を運搬する入れ物であり、かつまた新進気鋭の人物が交流する場所としての役割をになっていたことが知られる。つまり、それが和魂洋才であれ、和洋折衷であれ、洋館は新しい思想の実践的決断を促し、それを受胎着床させる母胎であるかのような印象を醸し出しているのだ。

 創設者は東京大学に入学するまでの2年間、「若江の家」から大阪高等学校へ通学し、当初は寝室と書斎からなる質素な日本間が2部屋があれば一学生としては十分だと言われていたらしいが、最終的に「管長公勉強室」としてこの洋館の普請を採択したのは創設者自身であったと思われる。その背景には、首都の最高学府において先輩として学び、文明開化の激流のなかに青春を謳歌した、天理教大阪教務支廰長・中山為信(1892-1961)本部員をはじめ、教祖の時代を生きた古老たちの創設者に対する強い思い入れがあったと推測される。筆者は『住宅』(大正15年11月1日発行)のなかに創設者が挿んでいたと思われるガリ版印刷の紙片を偶然見つけて、大正15年教祖40年祭(1926)直後の7月と8月に開催された一般教会長大講習会の時間割表と講演題目、そして講習会のそうそうたる講師名を知るに及んで、その思いを強くした。

 天理大学は、この洋館・「若江の家」を創立80周年の記念事業として創設者記念館にすることを、遅まきながらも本年の4月に決定した。準備委員会と顧問会議も追って設置されたが、2005年の80周年まであとわずか2年もない。私たちは修復再現を正確にするために、建築図面を探しているが、設計を担当した大阪のあめりか屋はすでになく、移築を担当した天御津組も現存していない。また施工主の大林組に問い合わせても、該当する図面を発見することができないでいる。レトロな内装やオリジナルな照明器具については、竣工当時や移築以前の写真を見つけるしか方法がない。そこで読者のなかで、屋外屋内を問わず、「若江の家」の写真をお持ちの方があれば、是非ご教示頂きたいと思う。

 関西の私立大学では大学間の生存競争が激しくなる中、歴史的な建学のシンボルとなる洋館の保存修理が相次いでいる。それは「建学の精神」をもう一度思い出そうとの意味があるようだとした解説記事を日本経済新聞夕刊(2003.5.24)が写真入りで紹介している。「欧米では古い建物が残るキャンパスの雰囲気に引かれ、観光客や地域住民が集まる。日本でも建築物を通じて各大学がアイデンティティーを見直す作業が始まっているのではないか」とは、建築構造学が専門の京都大学の西沢英和講師のコメントであった。天理大学もいま「若江の家」を通して、どこまで真剣にその「建学の精神」に接近できるかが厳しく問われている。



「グローカル天理」巻頭言集 第四巻 7月号
外辺医療と現代医学
宗教と心理療法の調和統合


 ここ数年、新聞紙上に現代医学以外の治療法を紹介する書籍の広告記事が急速にふえている。『超抗ガン剤低分子高吸収アガリスク末期ガン治る!助かる!』『超薬プロポリス_現代の難病にプロポリスが克つ理由』などなど。監修者は医学博士や薬学博士だ。書籍ばかりでなく「健康食品」の名のもとに、サメの軟骨、クロレラ、イチョウの葉、沖縄のウコン、ノコギリヤシに各種ビタミンやミネラルの調剤など、わが家に持込まれたサプリメントだけでもまだまだある。ダイレクトメールでも次々と外資系企業が参入して類似品の積極的な勧誘が行われている。景気低迷のなか繁昌しているのは健康食品界だけではないかと思われる程である。

 これらの民間療法は「外辺医療」という名でひとくくりにされ、前近代的なものとして西洋医学からは長い間排斥されてきた。しかし、最近この外辺医療が再評価されはじめて、代替医療や補完医療などと呼ばれるようになった。欧米社会ではこの名前を統一してCAM「補完代替医療」(Complementary & Alternative Medicine)という略称で呼んでいる。自然を重視した伝統医療を前近代的なものから脱近代的なものへと評価を変えてきたのは、「地球の健康なくして人間の健康はない」という市民によるエコロジー意識の目覚めであるとされる(『補完代替医療入門』上野圭一、岩波アクティブ新書、2003)。現代医学がもっとも苦手とする、ガン、糖尿病、肝臓病、心臓病など、いわゆる生活習慣病に悩むひとたちに「現代医学以外の治療法」としてCAMに魅力を感じている人の数はふえる一方である。東洋医学もいまCAMとともに脚光をあびている。しかし、大切なのは特殊なCAMと普遍の先端医療、つまりローカルとグローバルの統合であろう。この「グローカル」な調和は、患者自身の選択と責任においてなされねばならないのが現状である。

 インドの伝統医学であるアユールヴェーダは、風土に根ざした独自の医学体系を持っているが、鍼灸や漢方薬を主体とする東洋医学においては、人間を小宇宙と見て大宇宙と連関せしめている点が特徴である。『准南子』精神訓は「頭が丸いのは天に象り、足の方形なのは地に象っている。天には四季・五行・九つの領域(八つの方角と中央)、三百六十六日の日数があり、人にもまた四肢・五臓・九つの穴・三百六十六の節がある」と述べている。この「節」の数は骨の数と一致し、人体の関節を上体・下体と合わせれば12関節で、1年12ヶ月に相当する。脊椎骨は、頚椎・胸椎・腰椎合わせて24個で、1日の24時間と相通ずる。こういった考えから導き出される医学は、自然のリズムから逸脱した人間が病むのだという明確な認識を持っていて、その治療には内なる自然の秩序を回復することが第一と考えられていた。

 病む身体の秩序を回復する注目すべき補完代替医療に、セラピューティックタッチという「手かざし療法」といわれるものがある。看護学専門のニューヨーク大学名誉教授ドロレス・クリーガーがその開発者として知られている。彼は看護という仕事の基本要因を「人を助けたい、癒したいという願望、患者への切実な共感、病む人、苦しむ人にたいするつよい無私の感情」であると考え、だれもができる癒しの技法を模索していた。数々の臨床実験を通してその治療的効果に確信をもち、「セラピューティックタッチ」をマニュアル化し、今世界の75カ国でナースがその「手かざし療法」を用いている。大病院で外科医がメスを振るっている手術台のそばで、患者の頭上からセラピストが手かざしをしている光景は米国では珍しくないという。手をかざすヒーラーの絵は1万5千年前にピレーネー山脈の洞窟に描かれていて、最古の文献は5000年前にまでさかのぼる。手かざしは有史以来世界各地で用いられてきた癒し(ヒーリング)の原型である。日本語の「手当て」が治療を意味することはその消息をよく物語っている。

 天理教では、身上者(病人)の患部を「あしきはらいたすけたまえてんりわうのみこと」と3遍唱えて、3度撫で、これを3度繰り返す「さづけ」が、身上諭しをともなって、布教伝道の要となってきた。「さづけ」と「セラピューティック」の間には基本的な相違があるが、苦しむ人を助けたいという願いにおいては共通している。後者が脱近代化医療として普遍性をもちつつあるとき、その原因を追求して、前者に医療との共存を求めることは大切である。

 ときあたかも人間関係学科臨床心理学専攻の大学院が天理大学にまもなく設置される。天理教の独自的救済環境を活かして、宗教と心理療法の接点の研究や、心理臨床の高度な知識や技能に加え、宗教的な人間理解に基づいて心理臨床の実践を行う力を身につけることを目指しているという。しかし、その理念を具体的に達成するのは、「さづけ」と「諭し」の天理教救済史が実証する実践教学サイドからの、心理療法領域への積極的関与であろう。その逆は主客転倒であるというパワフルな気構えがとくに宗教学教授陣には必要だ。そうでないと宗教私学である天理大学の独自性はまたもや普遍に埋没して、その個性を輝かすチャンスを失うことになることを憂う。




「グローカル天理」巻頭言集 第四巻 8月号
宗教と夢 夢と現実の「二つ一つ」


 人間はこの世に生まれ落ちてから、赤ん坊の時はほとんど寝て過ごし、成人しても授業中や会議中は言うに及ばず、通勤電車のなかでも寝ている時が多いから、人生約3分の1は寝て過ごすのではなかろうか。従って年齢を聞かれたときに、私が60歳と答えるとすれば、私は生まれてから20年間寝てきたと答えていることになる。そして人間は、ほとんど忘れているにしても、この寝ているときに夢を見ている。その夢は魂の散歩であると実にうまく表現した人がいたが、その人の名前は忘れた。

 夢と宗教に関して言えば、宗教進化論で著名なE.B.タイラーは、宗教の起源を未開人の夢の解釈に見いだしている。人間が夢などの不可解な心的現象を理解しようとして、肉体から遊離し得る霊魂という観念を持つに至ったのが、霊的存在の信仰の始まりというわけだ。その霊魂の観念が、人間から動物へ、植物・岩石・食物・武器などへと連想・拡大されて、アニミズム的な世界観が成立し、そこから多神教、一神教という宗教が進化してきたという。夢を、遊離した魂の経験の現れであるとする信仰は、未開人や古代人に広く認められる。古代インドでは、睡眠中の人を急に起こすとその魂が肉体への帰り道を見失って癒しがたい病に陥ると考えられ、中国では睡眠中に魂が肉体を離れ、その逍遥の間の体験が夢であると信じられていたという。また夢が神や悪魔などのお告げであるという考え方は世界中にあり、その例は枚挙にいとまがないほどである。ギリシャでは夢の送り手はゼウスやアポロであったり、イスラムでは善い夢は神に由来し、悪い夢は悪魔から送られると教える。(『宗教学辞典』東京大学出版会)

 夢の多くは支離滅裂であり、意味不明、不合理に満ちている。常識の世界をはるかに超越しているので、そのために夢の解釈は古代から盛んに行われていた。夢は無意識への王道であるとも言われるが、バビロニヤでは夢判断のテキストが作られていたという。そのなかでは勿論、個人、国家を問わず吉凶が盛んに予言されていたに違いない。また、ユダヤ法典にはエルサレムに12人の職業的夢解釈家がいたことが記されている。バビロンが栄華を誇っていた現在のイラクやイスラエル・パレスチナの紛争のながきをみると、現実の世界が夢の世界にとってかわったようなむなしさを感じる。実際、夢と現実が逆転したような諸相は、最近あちこちに見られるようになった気がする。

 フロイトは夢と宗教を心理機制において同根と考え、宗教は幼児的願望が外界へ投影された幻想の体系であるとした。それに対してユングは、夢は意識的な洞察よりすぐれた知恵を現す能力があり、基本的には宗教的な現象であるとした。河合隼雄は『明恵夢を生きる』の中で、さまざまな仏僧の「上昇の夢」を分析解釈した後、ユングが70歳のころに心臓麻痺で危篤状態になったときに見たという、地球から遙かに遠ざかった地点に到達した夢ともヴィジョンとも思われる次のような体験を紹介している。

 「私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのが見え、そこには紺碧の海と諸大陸とがみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭はすばらしい青光に照らし出されて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。左方のはるかかなたには大きな広野があった、そこは赤黄色のアラビヤ砂漠で、銀色の大地が赤味ががった金色を帯びているかのようであった。」(『明恵夢を生きる』、140頁)

 1990年天理で宇宙飛行士などを招き「宇宙の心・心の宇宙」という国際シンポジウムを開いた。その時、アポロ12号で月面に着地したピート・コンラッドが「月面に立ちて想う」というテーマで話をし、その宇宙体験を数多くのスライドを使って披露した。その一こまであるスクリーンに大きく映し出されたインド大陸を中心とした宇宙からの地球の映像が、ユングが体験した「上昇の夢」の描写とぴたりと一致したような印象を与えた。明恵の夢の話を河合隼雄氏から聞いたコンラッドも大変驚いたが、氏によればこのような例は多く見られるとのことであった。しかし、何故かという質問に対しては返答は返ってこなかった。

 ところで、天理教では夢は肯定的に捉えられている。「どのよふなゆめをみるのもみな月日 まことみるのもみな月日やで」(ふ12:163)。「語るに語られん、言うに言われん。夢でなりと、現でなりと知らせたい」(さ23/6/2)。現実の世界に神の摂理があるように、夢の世界にも神の摂理がある。言葉で伝えられないことは、夢を通してでも知らせるという親心がある。ユングは、夢は無意識の側から意識の偏りを警告・補償するものを現しているとする。夢と現実を分断して「そんなの夢の話じゃないか」というのではなく、両者を橋渡しする「二つ一つ」の天理教学からの研究が求められる。

# by inoueakio | 2008-11-04 23:36 | 巻頭言集
2008巻頭言7月~12月号
2008年7月
「元気なアフリカ」と「苦悩するアフリカ

横浜市で開かれていた第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)が5月30日に閉幕した。首相は「元気なアフリカ」を目指す挑戦は始まったばかりで、政府は最大限の努力をすると訴えた。51カ国の首脳クラスが参加した「横浜宣言」の骨子は、開発、人間の安全保障、平和の定着、気候変動、パートナーシップからなる。その行動計画目的達成のために、政府はアフリカ向け政府開発援助(ODA)を5年間で25億ドルに倍増させると宣言した。首相は「日本の外交史上、類を見ない大規模な国際会議となった」今回のTICADの成果を、7月の洞爺湖G8サミットの議論に反映させると語った。この巻頭言が出る頃は、山積するさまざまな地球規模の問題解決にむけて、世界のアフリカ支援のあり方についてG8サミット主催国としての日本の国際的リーダーシップが問われる言説がジャーナリズムを賑わしているだろう。
TICAD IVのスローガンは「元気なアフリカ」(Vibrant Africa)であったが、筆者はこの言葉に主催者のごまかしを感じている。「苦悩するアフリカ」の現実から国民の目をそらせてはならない。「元気なアフリカ」は、アフリカ数カ国の経済成長率を表向きにした政治的なニュアンスの響きをもつ。たとえば、驚くべき経済的成長を成し遂げた資源大国アンゴラなどは、石油ビジネスで一部の人間が巨大な富を獲得しているだけであって、国民はその恩恵を何もうけていない。物価は5年で4倍に上昇し、国家としてのガバナンスが欠落している。「元気なアフリカ」という言葉には、腐敗した政府、搾取の構造、民族対立、貧困、エイズといった世界的問題が、集中的にアフリカにおいて存続しているという現実から目をそらせる危険がある。
2005年にアフリカ支援国によって採択された「パリ宣言」の趣旨は、アフリカ諸国独立後の過去半世紀にわたる援助の完全な失敗を認め、そこからいかに新たな方策を創出していくかという点にあった。この点に関してTICAD開催に先立つ5月14日に外務省が日本の主たるNGO代表との話し合いを初めて行った。筆者も出席したが、議論は「パリ宣言」の分析と説明レベルに終わり、経団連や政府レベルのアフリカ貧困支援のあり方に対するNGOからの貴重な具体的経験が活かせる機会とはならなかった。主催者横浜市も、市民へのアフリカ紹介、アフリカからのお客さんのおもてなし、一駅一国紹介といったイベントに象徴されるお祭り騒ぎ意識のレベルであった。 TICAD IVを開港150年記念直前の絶好の機会と捉えて、横浜市が独自のアフリカ開発プロジェクトを地域から立ち上げるという歴史的気迫は見られなかった。洞爺湖も同じレベルに終わるであろう。我が国においては、官と民、中央と地方が実質においてかみ合っていないのである。
アフリカ各国の首脳らが異口同音に求めたのは、貿易と投資の拡大で「アフリカの将来を支えるのは貿易であり、援助ではない」という点にあった。ある国の大統領は、イギリスは我が国より1ドルで買ったコーヒーを自国において14ドルで売っている。このことは、逆に我が国がイギリスに13ドルの援助をしていることになると皮肉ったのが印象的であった。東アフリカ共同体の貧困緩和自立支援の立ち上げにかかわった筆者としては、中国の資源外交に対抗する支援の名前に隠れた経済進出も重要課題だが、その際はアフリカ関係の学術研究者やNGOの経験と知見をもっと重要視してほしいと思う。ちなみにTICAD IV直前に龍谷大学で開催された日本アフリカ学会第45回学術大会には600人余りの専門学者が集まり盛会であった。数多くの貴重な発表があったが、その学問的成果が我が国のアフリカ開発会議にどのように反映されているのかは大いに疑問である。産官学民の合力があって、はじめて世界と国民が納得できる平和への政策形成ができると信じるからである。宗教者のアフリカにおける支援の役割についても考えさせられた。洞爺湖G8サミットに向けて開かれるG8世界宗教指導者サミットの成果が期待される。

2008年8月
東アフリカ共同体(EAC)と天理大学

東アフリカ共同体(EAC)の貧困緩和自立支援プロジェクトの中核をなす、高等教育交流のためのグローバルな「奨学資金制度の確立」への要請資料は、本年5月に開催されたTICAD IV(第4回アフリカ開発会議)において各国参加者に配布され、横浜の国際会議場ではパネル展示がなされた。この東アフリカ・プロジェクトは、9.11米国同時多発テロ後、天理大学の国際プロジェクトとしてインド・ジャムナガールやまたアフガニスタンへの頻繁な筆者の訪問に触発され、慎重な議論を経てEAC大使間との合意のもとに提案されたものである。
大地震と止むことのない戦争の苦しみに直面していたこれらの地域を訪問するまえから、筆者は環境汚染修復に有効とされる「バイオレメディエーション技術」と、イラン系アメリカ人であるナーダ・カリーリがカリフォルニアのヘスペリア砂漠で主宰する「自然建築」や、ネバダの砂漠で600年計画の生態建築論に基づいたパウロ・ソレリの建築様式に強い関心を持っていた。カリーリは、イスラムの神秘主義者として著名なスーフィーのルーミーを信奉する詩人でもあったが、彼は数多くのデザイン性豊かな土嚢ドームを完成して、惜しくも本年亡くなった。思い出せば、彼が紹介したイラン系のスイス人であるナシリーン・アジミ女史とニューヨークの国連で出会ったのが契機となって、広島において国連訓練調査研究所(ユニタール)の設立を見たのである。早速私たちは、活動の一環として、戦争で荒廃したアフガニスタンを復興させる人材能力開発のために、現地の若い人たちを広島に招請するという「アフガン・フェローシップ・プログラム」を始動した。天理大学にも来訪した彼らアフガニスタン人は、天理エコモデル・デザイニングセンターの土嚢ドーム群の中心に、祖国復興を祈って、30年後に発掘するメッセージをタイムカプセルに埋め込んだ。その話を聞いて、「アフガン零年」でカンヌ賞を受賞したアフガニスタンの映画監督シディック・バルマックも天理大学にやってきた。
2006年の夏、筆者はケニアへ初の視察旅行を行った。現地では、天理大学の卒業生たちが、エイズや戦争孤児を支援するNGOを設立しているだけでなく、貧しい人々とともに農作業や建設事業にも従事していた。また、彼らからの紹介によって筆者はンクンバ大学から依頼され「シンクロニシティー(共時性)の不思議—アフガン絨毯と日本刀」と題した公開講演を行い、その後の交流を通して多くのことを学んだ。
東アフリカ諸国の気候と自然環境は、インドとアフガニスタンとは大きく異なるものだったが、世界の豊かな国々と比べて、これらの国々における非常な極貧状況に、同じように強烈な衝撃を受けた。そのとき、アフリカ大陸の貧困を取り巻く歴史的、現実的な疑問が頭に浮かび、先進国のアフリカ開発支援のあり方を研究することとなった。このような次第で、TICAD IVやG8世界宗教指導者サミットへの関与は、もはや天から自分に投げかけられた義務と考えるようになったのである。
TICADや洞爺湖G8サミットは政府間の会議であり、民間が草の根で支援する現場のNGO活動とは一線を引いている。アフリカ学会も学問は政治に関与しないという原則からか、盛んにフィールドワークによる報告は行うが、国際支援は斯くあるべきだという政府支援への批判などはほとんど行わない。つまり調査や研究そのものが、悲惨な現実を改善しようとする強力な意思に支えられた活学になっていない。逆に、アフリカ学者は、アフリカ研究によって職を得ているという意味では、アフリカに助けられているという奇妙な関係になっている。
天理大学第2回東アフリカ調査活動隊は、8月にビクトリア湖畔にEACと共同してエコビレッジモデルの建設を開始する。つまり「天理活学」を通し、アフリカの貧困緩和自立支援にむけて、大学の建学の精神につながる「他者への献身」を実践するものである。その活動によって救われるのは、実は私たちであるという信念のもとに。

2008年9月
FRP船から木船へ─ビクトリア湖「船遊び」事始め

FRP船とはfibered-reinforced plastic(繊維で強化されたプラスティックス)船の略号で一般に樹脂でできた船舶を指して使われる言葉である。かつての船体は木船が中心を占めていたが、昭和40年代から軽快で長持ちのするFRP船が登場した。ところがいまこのFRP廃船が漁港の環境問題となっている。筆者は淡路島をはじめ数箇所の漁港や問題となっている河川を視察したが、中には河口に半分沈んだままのFRP製のボートやヨットなども見られた。漁師が高齢化し跡継ぎがいない場合、中古船をFRP漁船所有者が売りたいと希望しても、中古車のように買い手を見つけることはむずかしい。車両と違って船は陸送するのに手間もかかる。そこでそれまで使われてきた漁船が、港に係留され朽ち果てる姿が数多くみられるようになった。
5トン未満の、特に船外機をもちいるわが国の小型の漁船の大部分はFRP製である。FRP船は骨格と外皮とエンジンからなり、使用可能な船外機エンジンは東南アジアやアフリカなどの発展途上国に輸出され、小型漁船に利用されている。筆者が見たビクトリア湖の木製の漁船は手漕ぎもあるが、そのほとんどに日本製船外機の中古エンジンが取り付けられていた。ビクトリア湖には、まだ日本のようにFRPでつくられた漁船は見られない。違法漁業をとりしまる軽快な警備艇にFRP船らしきものを見たが、FRP船建造には経費が高くつくのか漁船のほとんどがいまだ昔とかわらぬ木船である。
ところで、FRP船の外皮の部分は廃棄物として処分されるが、これは廃プラスティックという産業廃棄物にあたる。したがって、その処分は廃棄法の規定に従わなければならない。廃船を漁港から別の場所に陸送し解体するには法的にも煩雑で手間がかかる。その分、漁船所有者に余計な負担がまわってくる。たとえば、北海道最北端に位置する礼文島の漁村などは、あと数年もすれば廃船の墓場になると憂慮されているという。漁船所有者はいまなら謝金をだすから使用中のFRP漁船をもらってほしい、その方が将来処分するより安くつくという。そこで筆者は、盛んに日本製中古車が発展途上国に輸出される実情に学んで、船外機つきのFRP中古漁船を内陸湖の多いアフリカ大陸に輸出し、貧困漁村の自立支援にリユースできないかと思いついた。苫小牧のコンテナ運輸が可能な港まで謝金で船外機エンジン付の小型漁船を陸送し、ブリッジを取り除けば帽子を重ねるようにFRP船5艘は40フィートのコンテナ一台に積み込めると計算した。ビクトリア湖までの内陸運送もふくめて、ウガンダ政府が運搬に関する費用を支払うというところまで交渉が進展した時点で、突如ケニアの大統領選挙後に騒動が勃発し、モンバサ港が閉鎖され、鉄道も破壊されて、この計画は頓挫してしまった。そこで、筆者はまずビクトリア湖に40フィートの伝統的木船を作ることに計画変更をしたのである。
ところがガソリンの異常な世界的値上がりが影響して、船造りより高価な船外機エンジンをつける余裕がほとんどなくなってしまった。そこでダウ船に学んで手漕ぎをかねた帆船の設計ができないかと考えなおした。しかし、ビクトリア湖にはダウ船使用の歴史がない。そこで帆船ホクレア号を再現し、ハワイから日本に航海したことのある旧知のハワイ大学の海洋人類学者ベン・フィニー教授に連絡をとり、帆船の歴史と造船の仕様に関する文献を入手し、今度は帆船の海洋史に首を突っ込むこととなった。
さまざまに夢は湖上を駆け巡るが、究極の貧困漁村の自立支援という「谷底せり上げ」を目指し、目下ビクトリア湖に「天理丸」を浮かべる「船遊び」の準備に入る次第となった。今回の訪問で、不思議にもビクトリア湖のエンテベの一寒村において、エイズや紛争で孤児になった数多くの子供たちに伝統的船造りの技術を誇りをもって伝承するウガンダの船大工に出会い、意気投合し、懸案のアフリカ国際プロジェクトに思わぬ加速度がついた。
「船遊び」とは申すまでもなく、『稿本天理教教祖伝逸話篇』168番の挿話に出てくる教祖のお言葉で、海外伝道を指すものと考える。

2008年10月
「鈍感力」と「狂気力」─妙好人と平賀源内

たしか10年ほどまえ、五木寛之の『他力』という本がベストセラーになったことがある。困難な今を生きる100のヒント、他力本願こそ生命力の真の核心などという言葉が本の帯に書かれていた。それからしばらくして出版された渡辺淳一の『鈍感力』などは、その奇抜な発想法において、今を生き抜く新しい知恵などといわれ、数ある「力」もの人生論のモデルとなりそうな評価まで得た。本屋を逍遥していて、最近この「力」というタイトルやサブタイトルを冠した新書の類や単行本がずらりと並んでいるのが目に入り驚いた。いわく「文化力」「共感力」「質問力」「実行力」「発見力」といった「刺激力」のないものから、「親力」「空腹力」「破天荒力」「一点集中力」「和力」「先読み力」「愛語の力」「大阪力」など中味が予想のつかない「力」ものや、中には手に取って数行目をとおしただけで「力」が抜け落ちて馬鹿らしくなるものもある。
そして、ついには本年5月下旬の刊行で、政治学者・姜尚中著の『悩む力』がたちまち数十万部のベストセラーとなっている。表紙には「悩みぬいて強くなる」と著者自身の顔写真に語らせている。いずれも編集者がベストセラーを狙って練りに練ったタイトルであろうが、ブームがつづく「品格」本をはじめ、読者を声高く叱咤するような調子のものが目立つ中、しかられ疲れた読者が、「悩んで生きよう」と声低く語りかける本書にこころひかれたのではないかという解説もある(6月18日付『日経新聞』夕刊)。世上を見れば、そのうち「殺人力」や「狂気力」などという恐ろしいタイトル本が出そうな気配である。
ミシェル・フーコーの大著『狂気の歴史』の序言の冒頭に「人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう」というパスカルのことばが引用されている。同感である。「狂」の文字の起源は「犬がめくらめっぽうにかけまわること」にあるといわれる。西行は「狂」への志なければ歌の心は体得できないと言い、知的浪人の芭蕉は、己の正気の沙汰をもて余し、ほとほと嫌気がさして、なんとか逸脱してやろうと努力をしたが「風狂」願望のまま死んでしまった。それに比べて一休は「狂」では完全に芭蕉を追い抜いている。「風狂の狂客狂風を起こす」の言葉どおり、「世法とはいかに」と問われて曰く「よの中はくふて糞してねて起きて、さてそののちは死ぬるばかりよ」。
狂気の横綱は、なんといっても平賀源内(1728〜1779)であろう。『放屁論』に述べて曰く、「人は小天地なれば、天地に雷あり、人に屁あり、陰陽相激するの声にして、時に発し、時に屁を放こそ、持まへなれ」。天理を朱子学で説明して、日常的放屁現象より「エレキテル」(摩擦起電機)発明の原理を導き出している。医学、蘭学に秀で、文学面でも戯曲、滑稽本などを通して、当時の社会や思想に鋭い批判を行った。持ちすぎた才能が世に迎えられぬ苛立ちから、貧民を苦しめる米屋と勘定奉行を殺傷し、牢獄で病死したとも、断食して死んだともいわれる。パスカル流に言えば、源内はまさに正気が過ぎた非常人ということになろうか。
寛政6年82歳で没した三州七三郎は、労苦の末、伐採した木材を盗まれたとき、盗人に謝礼をしたという。「日々前生に盗んだ報い辱し、こちらから返す道をしらなかったのにあちらから取りに来たと思えば礼を言うよりほかはない」。こういった人たちを「妙好人」といい、その天使のような心境と振る舞いは、いわゆる『妙好人伝』といわれる本の中に数多く語られている。妙好人の受動的天性と源内の非凡な能動的才能が合体した「狂気力」や「義憤力」を隠し持つ人材を、いま真の正義を求める世界は待望していると思うのだが。

2008年11月
アフリカ・新貧困緩和少額融資への期待

開発途上国向けの貧困緩和自立支援を目的としたムハンマド・ユヌス氏が、マイクロ・ファイナンス(少額融資)でひろく世界の貧困緩和に貢献しノーベル賞を受賞したのは有名である。グラミン銀行を代表とする無利子で融資をおこなうこのマイクロ・ファイナンスに対して、最近開発途上国の小企業家向けに実働しはじめたのが、専用ウェブサイトを立ち上げて運営をおこなうマイクロ・レンディング(少額貸付)という新たな注目すべきシステムである。後者は、とりわけ個人が貧困から抜け出し、より豊かな生活を求め、さらには小規模ビジネスの立ち上げに意欲をもつ人たちにむけて、低利子・無担保の条件での資金融資を行うと同時に、投資者にむけても利潤還元する点にその特徴がある。
アフリカ大陸の貧困緩和自立支援活動を目的として、ウェブサイトを媒体としたこの新たな投資・貸与活動がウガンダで昨年はじめて立ち上げられた。このマイクロ・レンディングサイトは、デンマーク政府援助機関ダニダが支援するデンマークの企業家によって設立され、MyC4と呼ばれる。本年9月、第2回天理大学東アフリカ貧困緩和自立支援調査・活動で再会した映像作家ロナルド・イサビリエ氏が、MyC4のウガンダパートナーとしてその代表者になっているのを知り、彼から綿密なヒアリングをおこなう機会をえた。わが国ではまだ知られていない、将来期待されるモデル・プロジェクトとして紹介しておきたい。
マイクロ・レンディングは通常の投資と比較するとその利益率は少ないが、その投資がもたらす貧困緩和への社会的付加価値は絶大であると思われる。ウガンダの国立統計局によると国民の「失業率」は3.5%であるが、若者の失業率は22%を超えているといわれる。しかし、実際は国民の労働人口の70%が変則的なビジネスに従事しているか、もともと職をもった経験がないから、公表された「失業率」の数字は信用できない。ヨーロッパの労働基準からみれば、ウガンダに限らずアフリカ大陸は単純ではあるが、なべて相当な潜在的労働力をもっていると見られる。ビジネスに対する専門的な知識と資本さえ与えれば、その巨大な潜在能力を開発することにより、国家の貧困緩和政策は、対政府間国際援助よりも、この草の根レベルの小企業化運動をとおして成功するのではないかと思われた。
MyC4は、ウガンダにおいて小資本融資事業部門であるCapital Micro Credit(CMC)と企業開発事業部門であるFederation for Entrepreneurship Development(FED)をパートナーとして活動をおこなっている。イサビリエ氏は、両部門の代表を兼任し、その活動振りがムセベニ大統領の写真入で現地の新聞で大きく取り上げられた。
融資支援を申し込んだ個人のビジネス案に評価が下されると、CMC/FEDはその企業提案をMyC4に送信する。MyC4はその企画案をウェブサイトに掲載し投資者を募る。最も金利の低い資金提供者が当案件の資金提供の権利を落札する。MyC4は現在74カ国から7,754人の投資家の実績を誇り、ウガンダでは99%の被融資者が利子の返還をおこなっている。投資者の受け取る利子の平均値は12.8%である。ウガンダでは銀行融資には26%、マイクロ・ファイナンスは35%の利子が課せられる。くわえて銀行は融資額200%の担保を要求する。貧困層にはとても手が出ない。そこへ無担保、低利子で融資が得られる新たな貧困緩和自立事業がインターネットを通して可能となった。融資を申し出る70%が女性であり、その個人零細企業の充実にむけた活動の成果は確実に草の根コミュニティー開発に貢献している。
MyC4の事業はケニア、タンザニアなどにも広がりを見せている。投資者にも利子が還元され、被融資者にも生活の向上が自助努力によって約束される新たなインターネット・ローンシステムは、グローバル化による21世紀の世界的貧困格差を解消するおおきな希望を提供する試みとして、注目していきたい。

2008年12月
人間の退屈と神の退屈

神は原初において一人で退屈したので、人間を創ることを思いついたという意味を持つ世界神話はさまざまにある。天理教の創造・救済神話である「元の理」もその例外ではない。『天理教教典』には、この世の初りは泥海であり、神は「この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」とある。退屈にもいろいろあるが、ラース・スヴェンセンは名著『退屈の小さな哲学』において、世界全体において退屈させられているときが気分であり、状況の退屈は感情であることが多く、実存の退屈はつねに気分と言えるだろうと洞察している。
神の子供である人間には、こころの自由は与えられているが、魂には「根本気分」としての「退屈」というものが神の遺伝子のごとくに込められていると考えられる。動物には人間にみられる退屈というものはない。人間は退屈から刺激や興奮をもとめて一時的に逃れることができても、永遠に「根本的退屈」からは逃避できない存在であると思われる。
ところで、『天理教教典』編纂の重要な素材となった「こふき話」の諸写本には「味気ない」という表現は見られない。たとえば、十六年本では泥海中に月日両神居たばかりでは神として敬うものもないし「何の楽しみもない」とある。そこで、なぜ「何の楽しみもない」という記述が「退屈」ではなく「味気ない」という表現になったかという問いが問われることとなる。その問いを追求する過程においては、たとえば、ハイデッガーが『形而上学の根本諸概念』において思索する人間存在の「深い退屈」への実存的な問いを援用することによって、「味気ない」という日本語が独自にもつ形而上学的味覚表現を媒体として、教理解釈に深みをもたらす可能性が予見される。
「おふでさき」には「退屈」ということばが1回見られる。「いまゝてハながいどふちふみちすがら よほどたいくつしたであろをな」と詠われる1号55番の一首である。つづいて「このたびハもふたしかなるまいりしよ みへてきたぞへとくしんをせよ」「これからハながいどふちふみちすがら といてきかするとくとしやんを」とある。一方、「おさしづ」においては「退屈」は10数件みられるが、「おふでさき」に示唆された過去、現在、未来を貫いた「元の理」の根本的意義につながる意味では使われていないように思われる。ところが、この「おふでさき」三首の「退屈」と「得心」と「思案」の順序は、気分と信心と思索、心理と宗教と哲学といった範疇とも重なり、現人間存在と天理教学における救済のキータ−ムともつながっている。
筆者は9月東アフリカから帰国後、強度のストレスと疲労から体調をくずし「気分障害」(mood disorder)と自己分析する一種の精神病的と思われる症状に陥った。アフリカの構造的な貧困現場における実体験と、わが日本の平和の中のばかさ加減の精神的落差に、コミュニケーションのことばを失った。複数の医師は精密検査の結果、肉体的原因は不明だと診断し、ただひたすら休養せよという。肉体的休養はメンタルな脳の沈澱した領域を活性化させる。肉体と精神の葛藤があらわになり、かくてある決定的な瞬間を契機に、脳梗塞で緊急入院することとなった。
この巻頭言は、退院の日に「根本的退屈」君との出会いの記念に記したものである。ラッセルは「退屈」の反対は快楽ではなくして、興奮であるという。そしてパスカルは、「人は何らかの障害とたたかうことを経て休息を求める。ところがそれらの障害をのりこえたならば休息は堪えがたいものとなる。『退屈』が生じるからである。『退屈』をのがれて動揺を乞い求めなければならない」と述べている(『パンセ』津田穣訳)。願わくばこの動揺が「退屈」から芽生えた陽気ぐらし共同体実現へのユートピア幻想につながることを祈っている。
# by inoueakio | 2008-07-01 11:04 | 巻頭言集
2008巻頭言1月~6月号
2008年1月
「家族の絆」と一派独立百周年を迎えて

日本には毎年3万人以上の自殺者がいるといわれる。近頃は家族を支えてきた人たちの自殺が目立っている。文学者にも自殺者はおおい。たとえば、芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫など。芸術至上主義に向かおうとする作家の魂が自殺という形で「家族の絆」を切断する。というより芸術至上主義は、個の「家族の絆」の幸福を超えた普遍的世界でしか成立しないからであろう。世界宗教の宗祖や教祖にもおなじことがいえる。天理教祖も例外ではない。
一方、近代化がもたらした老齢化や核家族というグローバリゼーションの負のあおりを受けて、「家族の絆」が希薄化したとする現代の日本では、温泉旅行で「家族の絆」を取り戻せという旅行会社のキャンペーンもみられる。先祖との「家族の絆」を保つために墓参りの代行業社が繁盛し、お盆期間中は代行墓参りが1件につき18,000円であるという。家族利己主義に傾きやすい「家族の絆」は、商業主義に利用されかねない脇のあまさをもっている。長寿社会においては、儒教倫理の呪縛から解放された「絆」の現代的、社会的意味も再考されねばならない。90歳を超える病身の両親を70歳代の老齢者が喜んで世話をすることは肉体的にも至難の業である。平均寿命が45歳であったころの道徳規範にも、あらたな「家族の絆」の意味が問われている。また、宗教が人間の救済を目的とするかぎり、たとえばエイズや戦争孤児の「家族の絆」とは、何であるかという問題もその視野に入ってこなければならない。
また、「家族の絆」という言葉には、教学的反語が隠されている事にも注目すべきであろう。中山家の「家族の絆」を構成していた伝統的な「家」の概念は、立教の瞬間から、世界たすけの絶対的要件としてその崩壊が宿命づけられていた。「家族の絆」の切断は、教祖ひながたの道の前半にもっとも機能した「たいしよく天」の働きであった。「たいしよく天」の「切る」守護は、家父長的村落の伝統的な「家」の終焉を意味する嘉永六年の母屋のとりこぼちに収斂されていく。中山家の母屋のとりこぼちは、夫・善兵衞の出直しの後に行われたとみられる。母屋の一室で教祖に神が天降ったのだが、その場所が人間宿し込みの場所である「ぢば」という地点であった故に、勤め場所普請のための母屋とりこぼちは、「元の理」に基づいた当然の成り行きであった。その後に行われたこかんの浪速布教は、母胎に見立てられる大和盆地から、その臨界点である十三峠をこえて、天理王の神名が引き出されるという西方の「をふとのべ」の働きに対応している。つまり、こかんの浪速布教は、広義には盆地的閉鎖空間から、大阪平野の地平が出会う海洋世界文明への誕生宣言をも暗示していた。その誕生までには、立教以来16年間に及ぶ“陣痛”のひながたの道があったのである。
ここでは「十三」という数字にも注目したい。十三峠は人間宿しこみのぢば甘露台の「十三段」に対応し、嘉永六年の六という数字は、甘露台十三段の六角形と「六台始まり」や身の内「六台」という六の数字に対応している。翌安政元年は、日米和親条約が結ばれ、日本は世界にむけて開国を宣言した。この年、3女おはるがおびや許しを初めていただき、陣痛のさいには未曾有の大地震が勃発したが、安産のご守護をいただいた。おびや許しは、よろづたすけの道あけともいわれる。大地の激震と陣痛、そして神名の峠越えと日本開国宣言には、二重に合図立て合う世界とお道の両面鏡的予言が読み取れる。
本年は明治41年より数えて天理教一派独立100年目にあたる。一派独立とは教団の社会的誕生に見立てられる。白紙に戻り一より始めるという百年の歴史的意義はおおきい。課題は白紙に何を描き遺すかという私たちの確固たる意志であり、そのためには「峠」を越える自立的覚悟が求められるという認識である。

2008年2月
万能細胞の出現と宗教者の立場

2007年の暮れ、もっとも衝撃的なニュースといえば、人間の皮膚からあらゆる細胞になる能力をもった万能細胞(人工多能性幹細胞=iPS細胞)が作られたという報道であった。この日本発のビッグニュースは、再生医療、つまり移植医療につながる新たな医療開発技術に関するもので、世界では早くも「ノーベル賞級」と賞賛する声が出ている。iPS細胞は、もう分化しないはずとされている皮膚などの体細胞にES細胞に特徴的に働いている遺伝子を入れ、人工的に作られる。ES細胞とは、受精卵が分裂して100個程の細胞の塊になったところでバラバラにされた細胞であり、その塊は成長するにつれて分化能力が失われ、たとえば血液の幹細胞は血液に、皮膚の幹細胞は皮膚組織になどと、特定の組織にしかなれなくなる。iPS細胞とは、これまで万能細胞の代表格であった胚性幹細胞(ES細胞)と違って、受精卵を壊さなくてすむ。したがって、今回の成果は受精卵を使わないという意味で、拒絶反応や倫理的な問題を回避しながら、再生医療への応用におおきな期待がかかるという点にある。つまり、将来この技術は、心臓などの形のある臓器を、そして一人の細胞から精子と卵子も作る可能性をもつといわれる。「さる一人(いちにん)」が人間を宿すという「こふき話」が思い出される。
従来の発生生物学の常識では、皮膚や肝臓、胃腸など一旦組織の細胞に分化した体細胞は、もうそれ以上分化しないと考えられてきた。同じ人間の組織の一部分から、その人の血液や必要とされる臓器が作られるという肉体が実現すれば、人類は自動的にさらなる長寿を合理的に手に入れることとなる。宗教の教学はiPS万能細胞の出現にどのような対応が迫られるのであろうか。
これまで、たとえば癌などの医学的に不治であるとされる病が、信仰の不思議な加護によって治癒したという例はしばしば聞かされてきた。しかし、iPS細胞による臓器再生医療は、端的にいえば癌に犯された臓器を切り捨て、あらたに作り出した新鮮な臓器と取り替えればよいということを意味している。その意味で、この代替医療は宗教の奇跡の現象的領域を極端に縮小する。奇跡のない宗教は気の抜けたビールのようなものであるから、iPS細胞の出現をとおして、神は宗教者に対して奇跡の心魂における本来的場面を再生するように急き込んでいるかのようだ。
「西遊記」に再生医療のカーニバリズム的側面を連想させる挿話がある。人間を妻に持つ「妖怪」が三蔵法師の肉を食らえば一千年は生きられるということで躍起になっているとき、妻に「あなたがたとえ千年生きても、その時は私もこの子も死んでいます。それでもいいのですか」と迫られ、さすがの妖怪も返事に窮したという話がある。天理教における長寿の基準は、百十五歳と「定めつけたい」と「おふでさき」に教えられる。長生きすることが信仰の目的ではない。「心澄み切れ極楽や」と謳われるように、心が澄み切る結果として「病まず死なず弱らず」の百十五歳定命が与えられるということに力点がおかれる。いくら長寿や富貴に恵まれていても、病気や我欲、心の不幸に苛まれていれば、陽気ぐらしは出来ないからである。ここに科学とは異なる宗教の不変的存在価値がある。
自然の力と人工の合体が織りなす万能細胞の驚くべき働きは、神人合一の世界を映し出す現代の鏡のようだ。もちろん人間の長寿は喜ばしいことである。しかし、万能細胞のお世話にならずに、心身健康な100歳以上の奉仕者によって、たとえば全天理教の教会でのおつとめが完成すれば、世界は自ずと天理教に帰依することになろう。つまり、教会が「たすけ」の万能細胞的役割を果たすこととなるからである。これこそが究極の「たすけづとめ」の姿ではなかろうか。iPS細胞の新聞記事を読んで、西遊記の「妖怪」が思い出され、長寿の陽気ぐらしとは何かを考えさせられた。

2008年3月
第4回アフリカ開発会議と天理大学

日本外交は本年さまざまな意味で正念場を迎える。その一つは7月初旬の洞爺湖サミットであり、もう一つは5月下旬に横浜市で開催される第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)である。その間を挟んで世界宗教者サミットも企画されているという。後者は毎年サミット開催国で同時開催されている。宗教者が世界平和に向けて宣言書をサミットに提出するというものである。 
宗教といえば、アフリカ社会ではいまも土着の宗教や信仰の体系が色濃く存在している。いわゆる世界宗教は、これら土着の社会体系と競合し、包摂しながらローカルなひとびとと接触し、そこで暮らすひとびとを教化し、入信へといざなってきた。たとえば、西ケニアにおけるキリスト教伝道合戦のなかでは、聖公会は学校を建て、白人の価値観を内面化した現地人エリートを教育しようとした。フレンズ伝道団は、建築職人や被服職人などの職業教育に尽力し、水車を利用した水汲みや製粉作業を女性達に教え込んでひろまったといわれる。
天理教の東アフリカ伝道は、現在ケニアとウガンダで見られる。これらの地域におけるNGO活動は、大小の教育施設や職業訓練所、クリニックなどの社会福祉的経営活動を媒体として有能な人材を発掘し、日本に派遣して教義研修を施すという、アフリカ人指導者育成の段階に入っている。すでに天理教本部で修養したアフリカ人信者は数十人に及んでいる。しかし、奇妙なことに、これに対応して、現地語で天理教の布教活動ができ、アフリカ人信者を異文化のさまざまな土着化における問題を意識して、教学的に指導できる日本人伝道者の数は圧倒的に少ないのが現状である。アフリカ人信者の修養が先行し、日本人伝道者の育成が遅れている。いわゆるNGO活動や伝道者個人の情熱に依存する海外布教の挫折は歴史の示すところである。伝道とは基本的に思想の伝播であり土着化である。それは日本語を教え、道路を作り、学校を建て、井戸を掘るといった一過性の物理的支援作業とは基本的にことなっている。
海外伝道者養成を目的として設立された天理大学は、卒業生がすでに布教師として活躍する東アフリカの現実とどのように関わるかがいま問われている。伝道拠点の充実展開を目指し、大学はアフリカに留学生を派遣し、海外伝道や学術的人材養成に貢献できる立場にある。交換留学の対象地域が先進国だけで、単なる語学研修が目的というのはいただけない。それを否定するわけではないが、交換留学はどこの大学でもやっていることである。宗教私学である天理大学の独自性は、伝道活動につながる語学研修を目的化してはじめて発揮される。
天理教団の支援なしには存続し得ない天理大学は「教学協働」の基本方針を打ち出した。その理念に立って、大学は東アフリカを焦点に新たなプロジェクトを2007年に立ち上げた。その第1回学術調査団が昨年の8月に派遣され、周到な準備のもとウガンダのマケレレ大学において「グローバル・テクノロジーの連携」というタイトルのもとに国際シンポジウムが開催された。現地大学の教員や学生をはじめ政府の関係省庁の人たちを含めて100名近くの参加者があった。現地での準備に奔走してくれたのが、布教師として活躍する本学の卒業生やウガンダに拠点を置く布教所の信者たちであった。他学では見られない独自の試みであった。
わが国が主導するTICAD IVには、アフリカ大陸53カ国より40数カ国の代表が来日し、アフリカ開発に関わる先進国や世界銀行、国連諸機関などを加えると千名を超える参加者が見込まれている。東アフリカ5カ国(ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンジ)の共同体(EAC)が、今この会議に提案するために、エコヴィレッジとヴィクトリア湖上大学のプロジェクトを立ち上げる準備に入っている。そのコンテンツは主として天理大学第1回東アフリカ学術調査隊の報告書を踏まえたものとなっている。本年8月に予定されている貧困緩和自立支援を目的とした、天理大学の第2回学術調査隊の活躍がEACや各方面からも期待されている。

2008年4月
「生れ更り」と「出直し」:群相と単独相

人間の心や行動の起源を探る「比較認知科学」の最先端から見れば、チンパンジーは、一匹、二匹ではなく、一人、二人と数えるべきだと京都大学霊長類研究所長の松沢哲郎教授はいう。その世界の最先端をいく霊長類学の成果にふれて、天理教の創造説話として知られ教祖から口授された「こうき」話の「さるがいちにんのこりいる」という、猿を人称で呼ぶその表現に妙に納得した。「めざるが一匹残り」という復元教典の「一匹」という言葉は、進化論を連想させるが、教典編纂当時、戦後の科学的水準に基づいたものではなかったかという推測にもつながる。もちろん昔から、孫悟空をはじめとして、猿は神の使いとして動物をこえた次元の物語のなかで親しまれてきた。神を一匹、二匹とは呼ばない。木には神が宿ると信じられていたことから、日本古来の神や神体は一柱、二柱と数える。ちなみに英語教典では「雌ざる一匹」をa female monkeyではなく、a she-monkeyと訳している。前者は雌ざる「一匹」、後者は雌ざる「一人」に近いニュアンスをもっている。訳語の方が「こうき」話の表現にちかい。
ゲノム(全遺伝情報)からすると、普通の人間とチンパンジーは98.8%、猿でも92%、植物のイネでも40%は人間と同じだといわれる。人間は地球の生物として、動物や植物とも連続している。「元の理」の創造説話では、生物が人間に成人するプロセスを、母親なる「いざなみ」が出直した後、虫、鳥、畜類などと八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残り、その胎に男五人女五人の十人ずつの人間が宿ったとある。「めざる」は、道しるべとして知られる猿の道祖神や「滅せざる」とも解釈されるが、それが女性であり、単数であるところに意味があると思われる。元日本モンキーセンター所長の河合雅雄は、年老いた離れ雌ざる一匹からあらたな群が発生するケースを興味深く報告している。
小進化としての「生れ更り」と大進化としての「出直し」を解説したのち、この雌ざる一匹の単独相に注目して、博物学者として著名な荒俣宏は、「博物学と『元の理』」(『「元の理」の象徴学』─講座「元の理」の世界2)の中で次のような鋭い指摘をおこなっている。昆虫は一つの個体が変態して幼虫から成虫になるという二種の生き方ができるが、成虫の段階でも二つの生活をまるで二重人格のようにすることができる。たとえばバッタは、単独にいる状態の自分と群れる状態の自分という二通りの生き方をする。通常一匹では葉蔭でおとなしく暮らしているバッタやイナゴが、突然雲のようになって群れ、稲などの植物を襲撃するという特異な現象がある。つまり、群相になった段階で色が褐色になり、乱暴になり、成熟も早くなる。群相は完全に人格、バッタ格を変質させる。「元の理」では泥海の群相から、人間は陸上の単独相に変化していく。つまり、泥海の「群れ」状態から陸上では「一人」になる。
一方、近代における自我の発見は、単独相、個人という存在を非常に重要視することとなった。人間も最初に群相であったと同じように、そしてイナゴが環境の悪化のために突如として凶暴化するのと同じように、単独相から群相に変化するときがある。日本の戦時ファシズムも突然我々日本人が群相に戻ってしまった結果だという比喩も可能である。そのとき、その群相をいかに制御するか、あたらしい基準とはなにかが「元の理」から展開出来ないかという提案である。荒俣は群生するときと、単独にあるときの人間の生き方のプロセスを、「元の理」から総合的に紡ぎだせないかと問うている。いま続発する世界のテロや紛争の中で、略奪行為や暴動が連鎖的に発生している。それはあたかも、平時はおとなしい人間がバッタに変貌した群相の襲撃を見ているような感じがしないでもない。

2008年5月
バイオエタノール生産にアフリカの竹類を活用せよ

バイオエタノールとは、トウモロコシやサトウキビなどのバイオマスを発酵させ、蒸留して生産されるエタノールのことをいう。バイオエタノールはアルコールの一種であるから、ガソリンに混ぜることで自動車燃料としてもつかえる。植物は二酸化炭素を吸収して育つため、燃やしても二酸化炭素の総量は増えない。したがって京都議定書では、バイオエタノールを燃やして発生する二酸化炭素はカーボンニュートラルという理由で規定対象外になっているから、石油など化石燃料から切り替えた分だけ温室効果ガス削減になる。
ブラジルでは1リットル30円で製造され、ガソリンにエタノールを20〜25%混合することを義務付けている。米国では農業政策の一環としてエタノールバイオマス生産に膨大な補助金が注入され、2005年包括エネルギー法では2010年までにバイオエタノール利用を年間2,839万キロリットルまで拡大するとしている。ドイツ、フランス、スペインもエタノール混合に税制優遇措置を導入している。
一方、わが国の「京都議定書目標達成計画」では、2010年度までに原油50万キロリットル相当分をバイオエタノールなどの植物由来の燃料で賄うことにしている。日本政府は90年比で温室効果ガスの6%削減を義務付けられているから、この計画は削減必要量の1%に相当する効果があるといわれる。石油連盟はバイオエタノールをブラジルから輸入し、また、アサヒビールではその蒸留技術を活かして、サトウキビを原料にバイオエタノールの生産を始めた。山形県新庄市ではバイオエタノールを直接3%まで混ぜた自動車用ガソリンの販売が解禁されているが、ガソリンより製造コストがかさむために普及はすすんでいないといわれる。バイオエタノール製造には、現在主としてトウモロコシやサトウキビなどの食料用作物が利用されているから、需要増加は逆に価格高騰をもたらし、飢餓に苦しむ貧困層への食糧政策に深刻な影響が出るという問題をもたらす。
筆者は生化学者ではないから、専門的な知識は持ち合わせていないが、貧困層に悪影響を及ぼさない植物種からエタノールが生産できないかと考えている。たとえば今アフリカで異常発生しているヒヤシンスや竹類からのエタノール製造である。前者は湖沼の生態系を破壊する異常繁殖植物としてビクトリア湖などではその駆逐方法に頭を悩ませているが、Hope for Africaではヒヤシンスを培養基としてキノコを生産し、AIDS治療に役立てる実験に入っている。また後者の竹類は、学名オクシナンデラ・アビシニカとよばれるが、東アフリカの高地に植生する俗名ウランジといわれるもので、その竹の子一本からは1日に1.5リットルのアルコール成分が注出できることが分かっている。現地ではビールや砂糖の代替として常用されているもので、とくにタンザニアではその習慣は何世紀もつづいている。竹類の成長力は強靭であり、サトウキビやトウモロコシとは親戚筋にあたる。
そのウランジの竹根を5本昨年タンザニアから日本に持ち帰り、そのうち1本が天理の温室で見事に根付き、生育している。2年後に竹からのアルコール分採集を期待している。すでに成分解析によって数種の酵素が発見されているが、これがべンチャービジネス化すれば、エタノール生産はもとより、自然健康飲料水としても役立つだろう。本年9月の天理大学第2次東アフリカ調査隊では、ウランジ竹林の現場検証をも行程に入れているが、専門家が同行を願い出てくれればよりこころづよい。バイオエタノールを専門とする企業や政府機関が、竹の国ともいわれる日本において竹類の隠し持つ環境改善力に注目されんことを期待したい。「根節から芽を吹く」という神言が重なる。根の節々から大地を突き抜けて力強く芽を吹くエネルギーは、竹の子以外に考えられないからである。

2008年6月
オリンピック聖火紛争の教理的解釈

チベット自治区の首都ラサで起きたチベット族による抗議行動に対する中国政府による武力弾圧は、北京五輪の聖火リレーへの妨害活動という形をとおして、非難表明がなされるという異常事態を引き起こしている。
中国は日本のかつての満州国支配を植民地支配として非難してきたが、チベット語やチベット仏教の布教を禁じ、傀儡宗教指導者を立てるのは「文化的虐殺」であり、時代錯誤の植民地支配であるという厳しい批判が日本にもある。その批判をかわすには、中国には少数異民族の宗教的文化的自由に対する要求を武力で抑えることにピリオドを打つという高度な政治的結論がなされなければならない。その鍵は、ダライ・ラマ14世と中国政府代表が問題解決のための対話をとおして、相互が実現すべき条件合意如何にかかっている。ダライ・ラマは中国からの独立は主張していない。高度な自治と固有の言語文化、宗教的自由を要求しているだけである。
古くから伝わる排他的な中華思想を持つ中国人の愛国心が、寛容の精神を持って、多様な宗教文化と少数民族との共存に成功すれば、北京五輪は後世人類史における大きな平和革命をもたらしたという評価を得るだろう。天理教教理からいえば、五輪聖火リレー妨害という国家的大節は、あらたな芽を吹く絶好の機会として、逆に天から中国「高山」為政者に与えられているということになろう。
しかし、何世紀にもわたって染み付いた中華思想は、いまや強烈な偏向的愛国心に変態しているから、その愛国心を世界平和に向けて脱皮させるのは、毛沢東時代の文化大革命にも相当する大混乱の道を歩む覚悟がいるであろう。偏狭な愛国主義や宗教原理主義は、排外主義や「蛸壺」主義に転化する。グローバル化時代における巨大化する蛸壺的中華思想は、北京オリンピックのスローガンである「ひとつの世界、ひとつの夢」とはまったく矛盾している。このことはその規模に関係なく、いかなる世界伝道宗教にも通底する真実であろう。
そもそもオリンピズムは、「近代オリンピック競技大会を含めて、すべてのオリンピックそのものを動かすイデオロギーである」(J.シーグレイブ)と主張されている。つまり、オリンピズムはオリンピック競技のイデオロギー的な拠りどころをもっているという点で、サッカーのワールドカップやテニスのウインブルドンなどの国際大会とは違う。シーグレイブ教授によれば、これらの国際競技大会はどれ一つとして象徴的な意味はなく、儀式やレトリックにおいても道徳性が欠落している点がみられると述べる。たとえば世界平和運動を目指した人権問題とか、国際的文化交流、青少年の心身育成、地球環境改善などといったビジョンを持っていない。
しかし、過去40年間、神聖化された近代オリンピズムは、利益中心主義、国家中心主義に毒されていて、クーベルタンの高尚な平和運動を目的とするオリンピック理念とは程遠くなってきている。その象徴的極め付けが、今回の聖火リレーへの妨害活動とそれに対する武力制圧であった。国境なき記者団の代表であるロベール・べナールは「五輪自体のボイコットを訴えているのではない。(われわれが主張するのは)人権無視の北京での政治指導者らを満足させるためだけのスペクタクル(見せ物)である開会式のボイコットだ。日本の首相にも開会式の3時間半だけ空席にしてもらいたいだけだ」と述べている。
数10万人に及ぶ当局が強制的に駆り出した「市民」が沿道を埋めて、聖火リレーを大歓迎したといわれる平壌の異常さは、1936年のベルリン五輪で、初めてヒットラーが演出した聖火リレーの後につづくさまざまな歴史的悲劇を暗示しているかのようだ。
イラク、アフガニスタン、アフリカなど、国際的紛争をとりまく現代の諸問題は、北京五輪問題と連動して、世界はますます混沌とした原初の「泥海」状態に回帰しているようだ。「元の理」の逆進化の様態が、世界の鏡にいま照らし出されているという認識が大切である。あらたな世界創造にむけての個性ある「道具」衆の発見と人材養成が急所となる。
と書いた直後に、未曾有の中国・四川大地震が発生、聖火紛争の火種は加速巨大化した。
# by inoueakio | 2008-01-01 10:59 | 巻頭言集
2007巻頭言7月~12月号
2007年7月
小さな実践モデルを考えよう

21世紀の開幕は、1998年の国連第53回総会において提唱されたイランのM・ハタミ大統領による「文明間の対話」の構想の骨子が、国連の「文明間の対話国際年」(2001)に結実してはじまった。ユネスコ憲章はその前文において、「戦争は人の心の中にうまれるものであるから、人の心の中にこそ平和の砦を築かねばならない」と謳っている。その主張の目的は、人類共生への「創造的平和」の理念を実現するところにあった。そのためには、20世紀の負の遺産である他者の略奪と支配におもむく「戦争の論理」や、経済的貧困・社会的差別につながる「構造的暴力」を超えなければならないとまとめられている。
2001年、国連大学主催の「文明間の対話」国際会議が7つのセッションに分けてひらかれた。それは、1)文明間の対話の歴史、2)多文化社会と文化変容、3)文明間の対話─課題と機会、4)アジアからの貢献、5)普遍性vs独自性、6)文明間の対話の政治的側面、7)異文明への理解─活発な文明間の対話に向けて、といったテーマであった。異文明間の相克と共生や、発展途上国と先進諸国の対等性等、「文明間の対話」にいたる問題は多岐にわたるが、難問解決にむけての筋道は、理念的にほぼ明確になったと評価されている。しかし、その問題解決の実践分野については、現実に効果的なことはほとんど行われていない。その証拠に世界はますます混沌の様相をあらわにしている。
ハタミにとって「対話」とは、「真理へ到達し、他者を理解する最良の方法」として位置づけられる。「対話」とは「自己を語り、かつ他者に耳を傾ける」努力である。しかし、皮肉にもこの年の9月11日、米国の経済・軍事を象徴する建物に相次いで自爆テロが決行された。その後米政府は、仲介に入った関係イスラム教代表との「対話」を「拒絶」して、テロの元凶であるとされるビン・ラディン率いるアルカイーダを殲滅するという理由のもとに、アフガニスタンの空爆へといっきに突入していった。ビルが倒壊し、逃げまどう人たちのすがたに、ある人は黙示録を想起し、一部ではその行為を芸術的な作品になぞらえて讃美する人もいた。政治家や識者には、テロはなぜ起こったのかという配慮をめぐらす余裕はなくなっていた。そこには「報復の正義」のみしか存在していなかった。その余波をかうように、正義か邪悪かの二者択一主義におかされたブッシュ大統領は、イラク空撃・侵攻の行為におよび、イラクはいまテロ連鎖による地獄の様相を呈している。
一方、アフガニスタンのカルザイ政権は、地方に割拠する元軍閥やタリバンの復活に国家統一からはほどとおい状況に追い込まれている。筆者は9.11事件以後7回アフガニスタンをおとずれ、カブール大学や現地NGOと共同研究・活動をとおして、アフガニスタンの紛争地においてささやかな自立支援を行ってきた経験から、実感としてアフガンをふくめた中東の未来には悲観的にならざるを得ない。
以上のような次第で、現代は「文明間対話」と「宗教間対話」が「文明の衝突」と「宗教の衝突」に無力のまま、両潮流が交錯しながら打ち寄せる「泥海」世界の波動鏡のようだ。人間創造・救済の理話である天理教学の「元の理」的視点からいえば、時代は人間創造の「元一日」のふりだしに戻りつつあるという感じがする。そこで一天理教者にも、陽気ぐらしへの教理論や説明だけではなく、痛烈な自己批判をともなうグローカルな世界的実践モデルの構築がもとめられる。「泥海」における平和への実践モデル(「ひながた」)は、「どじょう」(「元の理」)のように小さく身軽で多岐多様であるほうがいい。分かりやすいからである。

2007年8月
シンクロニシティーの不思議は神業か

本誌がお手元に届くころには、8月開催予定のマケレレ大学と天理大学の国際共同シンポジウムは終了しているであろう。マラリア蚊にやられる心配もあるので、アフリカに行く前に今月号の巻頭言を書いておくことにした。それにしても振り返って人生には不思議な出来事の連鎖があるものだとつくづく思う。
ウガンダに天理教の伝道拠点をもつ五十嵐仁は、昨年の暮れアフリカのサバンナで野外映画会をこころみるため、天理大学がカブール大学と合同制作したアフガニスタンのドキュメンタリー映画『カブール・トライアングル』の英語版のDVDを数枚持って日本を飛び立った。機内で隣の席の見知らぬ人に、その一枚を手渡した。物語はここからはじまる。DVDを受け取った隣人はドキュメンタリー映画制作者であったのである。名前はロナルド・イサビリエといい、ウガンダのデジタル・コンバージョンシステムの支配人でもあるということもあとで分かった。ちょうどそのころ、筆者は『天理教の世界化と地域化─その教理と海外伝道の実践』(日本地域社会研究所)の第3章において、ウガンダにおける貧困緩和プロジェクトについて執筆中であった。もちろんイサビリエ氏はこの事は知る由もない。
まずDVDを観たイサビリエ氏から、その感想と自己紹介をかねた長文のe-mailが届いた。そして最後にアフリカ大陸をテーマにしたドキュメンタリー映画を共同制作しないかという提案である。撮影資金支出を期待されると困るので、時期尚早と控えめな返事をしておいた。しかし、『ダーウィンの悪夢』、『タンザニアの蜂』、『ラストキング・オブ・スコットランド』といったアフリカ大陸の強烈なドキュドラマを立て続けに観たときでもあったので、感情移入が激しくその夜は正直言って興奮のあまり眠られなかった。余韻はまだ居座っているのだが、とりあえず彼の作品を送ってほしいという返事をしておいた。間もなくして2本のビデオテープが届けられた。
それを観て、またその意味のある偶然性(シンクロニシティー)に驚かされた。作品の一本は、シェル石油会社がウガンダの貧困層にむけて行う養蜂箱レンタル産業の紹介で、もう一本はマケレレ大学工学部M.ムサアジ教授による日干し煉瓦を素材とした野外トイレ製作の解説であった。一方、当方においては、グラミン銀行に学んで養蜂と養豚バンクによる自立支援活動の研究・推進中であり、豚糞や人糞をリサイクルするバイオガス・トイレのモデルもほとんど完成していたからである。後者は土嚢ドームを地下に埋め込んだ形で微生物による分解槽を建築するというものであり、燃料と肥料を獲得する目的をもっていたから、単なる野外トイレではない。まずムサアジ教授がこの技術に強い関心を示し、イサビリエ氏がマケレレ大学とのコーディネーターとなりドキュドラマを自作することとなった。また、天理教徒である佐藤隆夫が開発した、いま注目の鳥翼型風力発電技術の紹介も加わって、プロジェクトに強力な追い風がまきおこってきた。
駐日W.ビリグワ・ウガンダ共和国全権大使は、送付したこれらすべての資料に目を通し、インターネットで自ら検索して企画の客観的評価を行ったとのちほど聞かされた。面談では、土嚢建築工法に異常な関心を示された。そして土地の提供と、エコモデル村の建築デザインまで要請してくる展開となった。大使はモトローラを自国に定着させたすぐれた企業経営者でもある。また氏は自国においてはブガンダ族を代表する伝統的氏族的立場にあり、プロジェクトには全面協力を惜しまないと表明している。これを書いているのは6月であるが、このさきもどのようなシンクロニシティーが現れるかと思うと、夢は限りなくサバンナをかけめぐる。

2007年9月
21世紀・天理人間教学が目指す4領域

民族間紛争や国家間の戦争、そしてテロがグローバル化するなかで、さまざまなレベルで開催されている現代の「宗教間対話」は、世界中心主義をとおして文化・宗教の多様性をうけいれ、平和構築への祈りから実働への変革がもたらされなければ意味は無いという結論を導き出した。人為がもたらした自然・社会の環境破壊、そして紛争、飢餓、貧困、薬禍、麻薬の拡大などは、人間救済にかかわる現代宗教にその世界観や人間観、救済観の再解釈と具体的実践を迫っている。このように眼前に突きつけられた深刻な問題に、天理教学はどのように応答できるのであろうか。
グローバルにいちれつきょうだいを謳う天理教の海外伝道やNGO活動は、さまざまな文化圏におけるローカルな地域ですすめられているが、当事者はつねに両者をつなぐ「グローカル」な文明的課題を意識しておかねばならない。海外伝道者には、国内布教師よりも、教理の普遍性と受容文化の特殊性を媒体する「グローカル」な文化思想が要求されるのである。その意味で海外伝道は、多様な文化をもついちれつきょうだいの調和共存をめざす、天理異文化論の実験室であるといえよう。
このような視座に立つと、あたらしい「天理人間教学」ともいえる地平が見えてくる。第1には、「裏守護」の説き分けに暗示された諸宗教の包摂理念を再考し、「元の理」における親神の「十全の守護」の働きにてらしてすすめる天理比較文明論の構築である。第2には、「元の理」の救済論にもとづいた天理世界平和論の開発や平和活動の研究、そしてその具体的実践である。第3には、宗教に見られる倫理的規範の共通点を地球倫理を援用して発見し、その実践体験の独自性に注目しながら、相互に信仰の霊的レベルを深化することを目指した、たとえば天理神秘学の探究である。ここには、当然のこととして観想論をふくむ天理教の「祈り」の神学構築のねらいが含まれている。そして第4には、天理教の実践教理のなかから、倫理的規範の特殊と考えられるものをとりあげ、あらたな人類の共通倫理の原則をめざす天理地球倫理を提示することである。たとえば「人をたすけて我が身たすかる」という教理は、いわゆる悟りを求める信者が「里の仙人」であることが条件であることを示している。つまり、それは瞑想をとおして悟りにいたることを目指す「山の仙人」ではない。いかに親神が求める人間の悟りが日常生活において可能であるかを証明し、その真実を納得してもらうことができれば、「里の仙人」の教えは「山の仙人」を包摂した普遍性をもつであろう。あらたな普遍性を内蔵した倫理原則は、世界宗教の代表者による「宗教間対話」からではなく、目覚めた個人や小さな民族がその共同体存続のために実践してきたローカルな道徳律のなかから発見されるかもしれない。
さらにいえば、霊長類の生態学における調査研究からも、生命としてつながっている「虫鳥畜類」からも、あらたな人類生命存続のための倫理的原則がみちびきだされるかもしれない。かつて文化人類学者の梅棹忠夫は、若き類人猿学者河合雅雄の指導教官であったが、自宅の裏庭で兎の行動観察をする河合に、人間の「道徳の起源」について論文を書けと命じたらしい。兎の縄張り、ボスの選定、親子のコミュニケーションの関係から「道徳の起源」のヒントが得られるはずだというわけだ。じつにユニークな発想といわねばならない。「地球倫理」の構築も、比較宗教的アプローチや哲学的探求もさることながら、こういったアニミズムをとり込んだ学際的視点が再考されねばならない。ここには、世界平和を目指す「宗教間対話」を活性化させる「元の理」的アプローチのヒントが隠されているように思われる。

2007年10月
河合隼雄先生と日本マンガ芸術大学

本年7月19日、79歳で死去された元文化庁長官で臨床心理学者の河合隼雄さんをしのぶ追悼式が9月2日、京都市左京区の国立京都国際会館で行われた。小泉純一郎前総理ほか文化人や学術関係者ら約2,000人が参列した。河合隼雄さんは母校の京都大学に転職されるまで、天理大学に17年間奉職し、ここであの箱庭療法が誕生し、ユングに関する最初の著書が執筆・出版された。当時つかわれた箱庭療法の小道具類はいまもその原型をとどめて、天理大学の臨床心理実習室に残っている。
筆者が河合さんにはじめて出会ったのは、1959年の夏、フルブライト留学生として、ハワイ大学で英語のオリエンテーションに滞在されたときである。ハワイ大学の4回生であった筆者は、第2回東西哲学者会議の事務手伝いを仰せつかっていて、鈴木大拙、岸本英夫、大島康正、南加大学のワークマイスター、シドニー・フック、インドのラダクリシュナンといった碩学が発表・討論する会議に出席できた。河合さんはこの時点では、まだユング研究にすすむ決断はしておられなかったらしい。その消息については、天理大学奉職時代のエピソードを加えて、『未来への記憶』(岩波新書)にくわしく語られている。
2度目にお会いしたのは、UCLAの大学院で筆者が臨床被験者になったときである。コンサートに行こうと誘われたが、貧乏学生の筆者は同道できなかった。氏は最後列の一番安い1ドル50セントの入場券を買ってまず入場をはたし、必ず休憩時間に最前列に退席する人がいるので、後半その空席をねらって聴きに行くのだといわれたのには、さすがと感心させられた。筆者も学生時代フルートをやったことがあるというと、一緒に二重奏をやらないかといわれたときにはそんな余裕が院生にあるのかと驚いた。その後20年ほど経て、本気でプロに弟子入りし、氏の演奏曲や合奏曲を吹き込んだ市販のCDを頂いた。
スイス・ユング研究所の近くのご自宅を訪ねたとき、奥様手料理の日本食で長旅の疲れで続いていた下痢が翌日止まったことも思い出される。天理で国際シンポジウムを企画したときには、いつもこころよく引き受けてもらった。とくに、旧ソや欧米の宇宙飛行士との対談は強烈な印象を残したらしい。氏の著作集第11巻『宗教と科学』には筆者の名前をあげて感謝の意を表されているのに恐縮した。オリンピック国際会議を開催したときも、心理学と現代のスポーツ文化と題しての講演をお願いしたが、ホイジンハやカイヨワの理論を包摂しながらも独自の見解を発表された。
最後にお会いしたのは、昨年の5月11日京都の東山区にある文化庁長官の分室であった。近鉄天理駅の京都行きの急行電車に乗ると、ほとんど空席であった車輌の筆者の目前に河合さんがぽつねんとひとり座っておられた。氏はすぐ携帯電話で西大寺にある自宅の奥さんに電話され、「井上さんと電車の中で会議が出来るから、わしはこれから途中下車して家に帰るわ」という意味の冗談をとばされていた。京都駅では出迎えの長官車に同乗させてもらい、前もってお届けしておいた膨大な企画資料に基づく「日本マンガ芸術大学」の設立構想について、発案者である建築家の渡辺豊和氏と助言をいただいた。「井上さんこれは急いだ方がよいよ」といわれ、文化庁も応援するからとすぐ文科省にも電話をして下さったが、堺市の土地提供や、黒川紀章、安藤忠夫など著名な文化・知識人の発起人や賛同者を得ながら、財政的理由からなかなか実現できないのは、残念である。河合先生、これは必ず実現しますよとあの目じりを細めて笑う追悼式場のおおきな遺影に誓った次第である。中国には一歩先んじられてマンガ芸術大学がすでに誕生している。

2007年11月
二代真柱と「アトラス」男像支柱

11月14日は、天理大学創設者中山正善二代真柱が出直されて40年の日にあたる。筆者は10年前「昭和四十二年十一月十三日という日」(『天理教学の未来』天理やまと文化会議)という文章のなかで、真柱お出直し前日の不思議な出来ごとについて書いたことがある。その日の出来ごとの偶然ともみえる連鎖は、遺されたものになんらかのメッセージを発しているような不思議をもたらした。そして先日、書棚である捜し物をしていて、以前にもたしか目をとおしたことのある本の文章に吸い付けられ、それが妙に気にかかりだした。
天理図書館報『ビブリア』No.108(二代真柱中山正善様三十年祭記念特集号)に再録されてある故富永牧太館長筆の「思い出の人々」によると、11月13日の朝10時過ぎ、真柱から、旧知の小林秀雄氏が来天されるのは何時ごろかという意味の電話がかかった。結局その日は昼前から5時頃まで、石上神宮の重文の勾玉を見学したのち、参考館と真柱宅にある勾玉を巡って両者の蘊蓄が、お宅での昼食をはさんでかわされることになる。客を見送って2時間ほどして、真柱から館長に別件で再び電話がかかり、「それから、雄松堂のあれナ、あれは明日にしょうか…」で話しがとぎれたらしい。館長の筆は「雄松堂のあれ、とは多分、数日まえに到着していた阿蘭のブローという人の複製地図帖一セットを、図書館にまわす、ことだと思った─が、確実ではない─その明日がこなかったのである。」で止まっている。そこで図書館の書庫でこのセットを司書の協力をえて調べることとなった。
探し当てたJoan Blaeu(1596〜1673)の複製地図帖『Le Grand Atlas』は12巻からなり、制作者の生誕300年を記念して1,000部限定でアムステルダムの「地球・世界の舞台」を意味する1570年出版のOrthelius作である最古の地図帖の表題をとった「Theatrvm Orbis Terrarvm」社から再版されたものであることが分かった。この「アトラス」1冊は片手ではもてない重量である。Ortheliusの『世界地図帳』はすでに寄贈されていて、Blaeuのアトラス初版11巻も寄贈されている。その銅板印刷の彩色世界地図は、二代真柱20年祭を記念して出版された『本と天理図書館』(天理大学出版部)の巻頭グラビアに紹介されている。Blaeuの再版アトラスは、真柱が生涯かけて収集し、天理図書館に寄贈された膨大な数の貴重書の最後のものであることが確認された。
「アトラス」はギリシャ神話の大地の神である巨人神の一人でプロメテウスの兄弟にあたる。オリンポスの神々と戦って破れ、天空を双肩で支える罰を課せられた。大西洋Atlantic Oceanの名もアトラスに由来する。アフリカ大陸北西部を東西にはしる山脈もアトラスの郷土とされることからアトラス山脈といわれる。普通名詞として「アトラス」は「地図帳」を意味するが、それは地理学者メルカトルが作成し1595年に出版された最初の地図帳の扉画に天空を背負う神話のアトラスの姿が描かれているところに由来している。このアトラスの姿を載せたメルカトルの初版も真柱によって寄贈されている。
古代ギリシャ建築では、アトランテスは男性像をかたどった支柱をさすが、これも天空を支えるアトラスにちなむ男像柱である。古代ローマ時代のナポリの国立考古学博物館には、天空を必死になって双肩で支え耐えるアトラス全身像がある。その映像を観ると、天理図書館生み育ての親である二代真柱の壮絶なアトラス柱像的生涯と突然かさなり、一瞬呆然とした次第である。
二代真柱が出直し直前に贈呈された「アトラス」にアトラス像がなかったのは「私の地天の理をつなぎ支える仕事はこれで終わったのだ」との予言的暗示とも解される。

2007年12月
学問と信仰は己を頼むべし

『言志四録』(佐藤一斎)に「学に志すの士は、当に自ずから己を頼むべし。人の熱に因ることなかれ」とある。また『論語』には「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」とある。つまり、他人に見せびらかすために花嫁衣装を作るような学びかたをするなと戒めている。同じような言葉は『淮南子』にもある。すなわち「火を他人に乞うてもらうより、自分で火打石を打って火をおこしたほうがいい。他人の汲んだ水をもらうより、自分で井戸を掘ったほうがいい」とある。一方、これらの箴言を連想させる言葉として、「おふでさき」には、
このよふのもとはじまりのねをほらそ
ちからあるならほりきりてみよ V: 85
このねへをほりきりさいかしたるなら
どのよなものもかなうものなし V: 86
とある。
『言志四録』や『論語』、そして『淮南子』のことばは、「裏守護」における神の言葉として、「おふでさき」第五号に啓示さた2首の言葉につながっている。前者は、聖人の学問は、自己の徳を高めるためにするものだから、自ら道を体得することを貴ぶべきで、知識で自分を飾ってはいけないと説く。この点が肝におさまっていれば、自ずとその人の学問には普遍の世界を射る独創性がもたらされる。なんとなればその掘られる「根の世界」の先端には、真理の水脈が流れているからである。一方後者は、教祖ひながたの道を単に舌先で解説するのではなく、そのひながたの道の原則としてある「元の理」の根を全身で掘る研鑽と修行をとおして、独自の「悟り」にいたる体験を求めよという、神からの挑戦状であるとみられる。両者に共通している点は、他人の考えをあれこれ調べて頼りにするのではなく、自からの思索と行動を頼りにせよという活学にある。つまり、学者も信仰者も、先人のまねや宗祖・教祖の単なることばの引用反復というのではなく、独自の思索と行動の独創性にその価値をおけと説いているのである。誰がなんと言おうと真実を求めて自ら根を掘って見せるという鬼気迫る独自性(ローカル)が、普遍的世界(グローバル)に抜け出るグローカル(納得・成る程)の道を開拓していくのであろう。
学問や信仰の世界だけではない。現今の日本の政界にも、外の世界から見れば蛸壺の論理から抜け出せないような臆病さが見られる。要するに度胸がないのであろう。憲法改正を急げといっているのではない。被災国、貧困地域に対する文化・支援外交一つをとってみても、わが国は北欧を含めた先進国にはもちろんのこと、お隣の韓国や中国にも遅れをとっている。例をあげればきりがないが、たとえば国技である柔道。アフガニスタンには現在8カ所の柔道場があり、1,000人近い愛好者がいるが、日本からの指導者は一人もいない。筆者が滞在したカブールのゲストハウスには小さな道場があり、戦争孤児たちが北欧から派遣された女性コーチから柔道を学んでいた。その練習前後の礼儀作法は日本の伝統に従ったものであった。日本大使館に聞くと、カブールは危険地帯だから外務省がコーチ派遣を許さないし、派遣してほしいという柔道家もいないということであった。安全地帯ではなく危険地帯や貧困地帯が先進国平和国家の支援を求めているのである。
このような平和な日本の中で、宗教私学である天理大学の卒業生が国内に安住することなく、「谷底せり上げ」にむけて東アフリカのウガンダとケニアにおいて、貧困緩和・自立支援の長期的ビジョンを立ち上げ地道に努力しているのは、わが国の宗教団体には見られない若者の快挙である。その活動報告会が10月27日に天理大学で行われた。筆者は彼ら若者の熱意に賛同して、3,000万人の貧困層がへばりつくように生活している世界第2の淡水湖といわれるビクトリア湖畔において、東アフリカ5カ国共同体と協働してエコビレッジの建設、そしてFRP漁船のリユースプロジェクトをともなう「湖上大学」の立ち上げの準備に入っている。あらたな「根を掘る」もようの活学がはじまる。
# by inoueakio | 2007-07-01 10:52 | 巻頭言集
2007巻頭言1月~6月号
2007年1月
天理大学東アフリカ調査研究復活に向けて

いま、アフリカ大陸がさまざまな意味で世界の注目を集めている。思い起こせば、天理大学は1950年代後期から1960年代において、日本のアフリカ研究の牽引車としての役割をはたし、創設者である中山正善二代真柱様は、わが国の東アフリカ調査研究活動におおきな人的、財政的、精神的支援を行った。この史実は、日本オリエント学会活動などへの貢献とともに、関係者にはひろく認知されているところである。天理図書館にあるアフリカ研究の貴重な学術文献は、3冊の分厚いカタログに分類整理され、将来本を含めると5,000点をゆうに超えている。東アフリカの主要言語であるスワヒリ語辞典や、西アフリカの民族語辞典なども本学の教員たちによって編集出版され、わが国のアフリカ学におおきく貢献してきた。
また、おやさと研究所は、創設者の意志によって東アフリカ研究の目的でタンザニアの東北部キリマンジャロ山麓のアルーシャに4万7千坪余りの研究基地を確保していた。天理教におけるコンゴの医療支援活動やブラザビル教会の布教展開の背景には、創設者によるアフリカ民族文化に関する学術研究の強烈な関心と隠れた伏せ込みがあったのである。この真実を知らずに、本教のアフリカ伝道を語る資格はない。
創設者は、教務の激務をぬって生涯をとおして19回にわたる海外巡教と視察を行い、帰国後すべてに亘って旅行記を出版している。昭和8(1933)年、アメリカ合衆国への船旅による3ヶ月余りの巡教は、シカゴ世界宗教大会における講演をかねていた。列車で米大陸横断を行い、ワシントンにおいては、「ネグロ人のホワード大学」を訪問しているのがとくに注目される。黒人学長室では「白人に対する不平や、卒業生の動き、それにネグロの就職問題等」にわたって会話が弾み「同じ、有色人種である点に一脈相通ずる所がある」とその印象を語り、「有色人種の覇者として日本人の活躍を嘱目すると祝福されて学長に別れた」と、『アメリカ百日記』には記されている。ネグロ人最高学府のホワード大学総長・ジョンソン博士との対話を通して、世界人類一列きょうだいの教えが、創設者の胸先に痛烈によみがえり、この出合いをとおしてアフリカ研究と黒人布教への確たる動機づけがなされたものと筆者は推測している。昭和35(1960)年、コンゴでの黒人信者の誕生も決して偶然の為す業ではなく、創設者の信念と覚悟の持続が可能なさしめたと認識するのが大切であろう。
コンゴからケープタウンの喜望峰へ南下し、エチオピアの首都アジスアベバへ向かわれる途中、現ケニアのナイロビ空港に夜半1時56分に到着、約6時間の飛行機待ちの時間を利用して、創設者は「怪獣の横切る道を12マイルはなれた真夜中のナイロビ街へと」タクシーで走り、ニュースタンシー・ホテルのロビーの椅子の上で2時間あまりの仮眠をとっている。その間の様子も『北報南告』にくわしく記述されているが、1981年にはじまった「餓えた子にミルクを」という本教のアフリカ飢餓救援運動が、ケニアを対象国とされたのも、創設者によって20年前にその種まきがなされていたことに気づくと、実に不思議な感慨におそわれる。
教祖百二十年祭後第一年目にあたる、本年亥年の2007年は、奇しくも創設者没後の40周年にあたる。天理大学がその合図立て合いの時旬の意義に目覚め、本学卒業生が活躍する東アフリカ伝道への学術後方支援にむけて、全学的プロジェクトを立ち上げることが強く期待される。アフリカ大陸は、教祖が仰せられた「谷底せり上げ」の21世紀におけるグローバル化の負の象徴的貧困にあえぐ「たすけ」の場であると信じるからである。

2007年2月
近衛秀麿と天理教青年・婦人会会歌に思う

『天理教青年会会歌』(作詞明本京靜)と『天理教婦人会会歌』(作詞明本京靜)は近衛秀麿の作曲である。前者は昭和7年10月27日に撰定、11月21日に近衛指揮のもとレコーディングされた。青年会会歌誕生の年は、その23年後天理教音楽研究会を創設された中山善衞前真柱誕生の年と合図立て合っている。婦人会会歌は、青年会会歌誕生の1週間後の11月28日、近衛と明本両氏に製作が依頼され、昭和9年の2月に完成をみた。青年会会歌が撰定といわれるのは、作曲と作詞を両者に依頼して出来上がったのではないという意味であろう。その根底には、おぢばを訪れその盛況に魂を揺さぶられた京靜と秀麿の自発的意志をうながす時旬の「成ってくる理」という不思議な神の守護が働いていたように思われる。
秀麿は、京靜をともなって、中山為信本部員宅に数回宿泊したことがあるといわれる。それは為信の小学校の頃からの同級生でもあり、のち著名な外交官・実業家となった岩井尊人が、2代真柱に秀麿を紹介したところからはじまっている。尊人は東京帝大在学中の大正4年に『天理教祖の哲学』という大冊を著している。また昭和8年「みかぐらうた」の英語訳をレコーディングした時代先取の秀才でもあった。一方、著名な声楽家でもあり作詞家でもあった京靜は、おぢばを去り比叡山に登った時、天理で聞いた教えとその強烈な印象が忘れられず、山上で一編の詩を詠い上げたという。後しばらくして京靜は天理を訪れ、為信宅で秀麿と再会した。そのとき京靜が差し出した詩歌に目をとおした秀麿は、自分がその詩に曲を付けてみようという感覚におそわれ、その場でいまも為信宅に現存している古い日本楽器製のピアノを奏で作曲に及んだらしい。ちなみに、このピアノは、2代真柱の姉にあたり為信と結婚した玉千代(後の3代婦人会会長)の母であるたまへが、娘のたっての願いにより唯一の嫁入り道具として中山家から持たされたものであるという。
青年会会歌は、天理高校の校歌として甲子園球場でしばしば演奏されるからひろく知られている。初演の記録は判然としないが、『アメリカ百日記』において、2代真柱が海外巡教に「秩父丸」で横浜出港(昭和8年6月15日)する際に、「みかぐらうた」と青年会会歌が「誰音頭を取ると云ふではなしに、湧き起り…陸上も、船上も」合唱されたと記している。この頃には、その勇躍するメロディーはすでに全教に膾炙していたのであろう。
婦人会会歌(ニ長調)の旋律は、青年会会歌(ハ長調)の20小節に対して21小節からなっている。前者の頭の小節は4拍子の4拍目から次の小節につながる。その弱起をうけて青年会会歌は次の小節の頭から強起ではじまり、両会歌は共時的に演奏できるように工夫されている。青年会会歌の旋律は「見よ空高く 輝くひかり」と中天から高音程が「ひかり」の「羽翼」となって垂直に降下して来るようなきらきらとしたイメージをかもし出す。一方、婦人会会歌は「かがやくあけぼの いま陽は出でて」と母なる大地の稜線から昇る水平感覚の低音から始まる。まさに「ぎ」「み」に象徴される親神の守護を縦横主柱軸に定置させ、それを展開・収斂するテンポで重複表現されているかのようだ。両曲は「天理青年進めわれら」「いざやいさめ臺なるわれら」で共鳴完結している。
2006年、時あたかも教祖120年祭の年『近衛秀麿─日本のオーケストラをつくった男』という音楽界の巨人・近衛評伝がはじめて世にでた。秀麿の天理教婦人会会歌と青年会会歌作曲にうかがわれる心象風景については、次の機会に述べてみたい。

2007年3月
「虫・鳥・畜類」と海外伝道

「元の理」において「虫・鳥・畜類」は、人類の原型を生む進化の前提として物語られている。ミツバチやアリは昆虫であり「虫」に対応する。また、その卵や肉を人類に提供するウズラや鶏などは「鳥」そのものである。くわえて豚や羊や牛は「畜類」に相当する家畜として、宗旨の違いから食されない種類もあるが、彼らはその肉や乳、毛皮や骨を提供することによって、なべて人類存続の衣食住にも貢献してきた。アフリカ大陸では、ある種のアリは大量に油であげ、視察したウガンダの町市場などではどこでも売っていた。アリは貴重なタンパク源をも提供している。アリ塚の土は良質の煉瓦の素材ともなり、土のう建築に必要な素材を提供する。アリ塚の廻りには、アリたちが運んで来る菌類で良質のキノコを発生することがある。
養蜂といえば、古代エジプト人は紀元前2500年ころにはすでに組織的におこなっていたらしい。タンザニアでも養蜂は木に吊す伝統的な巣箱が多用され、ラングストロース式の巣箱のレンタル業プロジェクトもNGOが植林活動と併行してすすめているところがある。ミツバチは六角形の巣房をあつめて壁をつくる。立体的に見ると、六角柱を規則的に組み合わせ、底がピラミッド状に突き出ている。空間の利用として六角形はむだな隙間がなく均一で材料が少なくてすみ、きわめて幾何学的で合理的・経済的な建造物であることが分かる。一匹の選ばれた女王蜂は数万のミツバチを産み下ろす。不意に巣箱を開けたり、熊などが蜜を求めて近づくと「群風」と呼ばれる羽音を出し、行動を開始する。突然の「群風」は熊を驚かせて退却させる。この現象は、命令なしに全体が統制のとれた行動であると解釈されるところから、ミツバチの社会が個々の蜂の集まりであるというよりは、全体で一つの生命体となっていることを示唆している。この「一手一つの和」を連想させる特徴にくわえて、ミツバチは甘露ともいえる蜜を提供するところから、ミツバチの巣作りや蜜は、人間が宿し込まれたぢばの六角の「甘露台」を想起させるのである。また、その生態が残す一匹の女王蜂は、「虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた」と物語る「元の理」の意味世界を連想させずにおかない。
琥珀のなかにミツバチを閉じ籠めた4200万年前の化石が発見されたことがある。そのミツバチは現在と同じ姿かたちをしているところから、「ダーウィンの進化論」に適合しなかった生物といわれる。その理由は、第一に、ミツバチは食料であるハチミツと花粉の量に応じて「群」の蜂人口を調整し、食糧難を切り抜けてきたということ。第二に、ハチミツは単糖類であるため、即エネルギーとなり、また外側のハチは内側へ、内側のハチが外側へゆっくりと対流移動することにより、巣内の温度を摂氏5度に保ち、零下40度を超す北海道の極寒を野外の自然で生きのびることができるという点である。
また、自然界では美しい花を咲かせる植物は、ミツバチの交配で実をむすび存続してきた。その果実は野生の鳥類や動物を育て、人類生存にも貢献してきた。つまり、ミツバチは、花粉交配をとおして自然界の生命を支えてきた人類の大恩人であるといえる。そのミツバチの生態が変化しないというのは驚きである。ここでも即時に「変わらんが誠」と教えられる神言が思いだされる。「虫」の生きようのなかに教えの真実がきらめいている。筆者は、いまグラミン・バンクに学んで「虫・鳥・畜類」バンクを、海外伝道の「谷底せりあげ」に向けた、ささやかなアフリカ自立支援のひとつの手だてとして考えている。

2007年4月
「祈り」と「つとめ」と「まつり」─天理教と一神教

祈りは、人類の精神史のなかでさまざまに進化してきた。祈りの原型は、原始人の素朴な祈りであった。その祈りの対象は、呪文や呪術をとおして、死者や天地の至高神やさまざまな自然神、あるいは守護神にむけられていたであろう。この原初的な祈りのなかには、すでに感謝や帰依、崇高、確信といった純化された現代の祈りの基本をなす要素がみられる。祈りは古代宗教をとおして倫理的側面をとりこみながら、神秘主義をまきこんで、一神教の予言者宗教における祈りや、人格神を否定する禅定の両極に分化してきたと思われる。ことばを主体とする一神教の祈りと、ことばを「教外別伝・不立文字」として否定する禅定の祈りの両極を、天理教の「祈り」のなかにおいてどのようにして包摂できるかを考えることが、天理教の世界伝道にとって最重要の課題であることを認識することは大切である。
天理教における共同的「祈り」は「かんろだいつとめ」においておこなわれる。「つとめ」がおわると、よろづよ八首と十二下りの「てをどり」が九つの鳴り物を入れてはじまる。そのころから、2時間に及ぶ祭典の全時間を礼拝場で厳粛に過ごす参拝者もいるが、東西南北の礼拝場で「つとめ」に参加した万をかぞえる参拝客は、徐々にながい東西の回廊をつたって教祖殿に移動しはじめる。中山みき教祖は「元の理」によれば人間の母親としての魂をもち、いまも存命でひとしく子供である人類の救済に働いているというのが天理教信仰者の根底にある。その母なる存命の親に出会うために、「つとめ」をとおして「ぢば」に「かえり」、自らの魂がその宿し込まれた「ぢば」から再生して存命の母に相まみえるのである。遠視・俯瞰すると、途切れなくつながって移動する参拝者は、母の胎内から回廊という産道を通過して蠢いて出てくる無数の生命のようにもみえる。そのうごきは「元の理」における泥海中の無数のどじょうの様態を連想させる。神殿と教祖殿をつなぐながい回廊は、「つとめ」により再生した参拝者の生命が、ふたたび生みの母親に出会うための産道であり、参道でもあった。毎月26日の祭典に参加することは、信者にとって魂のあらたな誕生を感覚することであり、その確認は信仰のよろこびを増幅させる。とすれば、「つとめ」と「まつり」は、自らの生命の厳粛なる「宿し込み」と祝福すべき魂の「再生」であると理解されるから、祭典においては一神教にみられる時空間の聖俗区分を天理教にもとめることは筋違いであるという考え方も成り立つであろう。
天理教の祭典はながい年月をかけて自然のうちに現在のかたちに収斂してきた。現状を肯定的にみれば、以上のような考え方も可能であろう。しかし、国内外、ぢば以外の海外伝道地域において、教理がただしく伝わるために、この祭典のながれがそっくり受容されるべきであるとはいえないであろう。この問題は天理教が世界化するために次世代にのこされた文化的課題である。ぢばの祭典は、父なる神と出会う欧米の一神教的厳粛性より、その母性的ゆるやかさ、聖俗区分のあいまいさにおいて、より人間的であり、どちらかといえばアフリカ大陸や中南米の土着の宗教儀式における陽気な雰囲気がただよっているような感じさえあたえる。「かんろだいつとめ」をその荘厳性において原理的・父性的とすれば、つづく「てをどり」は実践的・母性的側面をあわせもっているとも考えられる。したがって、共同的にも個人的にも天理教における「祈り」は、この両者をつなぐ内実がもとめられるのである。陽気ぐらしへの「祈り」と「まつり」は、父性と母性、理性と感性、そして沈黙とつとめの調べ(音楽)をあわせもつ親原理から成り立っている。

2007年5月
スーフィーの旋回舞踊とつとめの地歌

2007年3月、筆者は機会があってトルコ中部に位置するカッパドキア地方をおとずれた。ギョレメ渓谷の丘陵地帯には、岩を掘り抜いた洞穴に旧石器時代から人間が住んでいたという尖塔状になった円錐形奇岩が林立している。紀元4世紀に迫害を逃れてやって来たキリスト教徒たちが掘って造った洞窟内の礼拝堂や修道院は300以上もあり、7階まで発掘された数カ所の地下都市には1万人以上の人たちが生活していたといわれる。
カッパドキアの西北にセルジューク・トルコ族のキャラバンサライ(商隊宿場)・サルハンがある。そこに1249年に建てられたというアヒ・ユスフモスクにおいて、深夜イスラームの神秘主義で知られるスーフィー教団の儀礼に参加する機会に恵まれた。筆者が鑑賞したのは、アフガニスタンのバルフに生まれた詩人メヴラーナ・ルーミーを祖師と仰ぐ、有力なデルヴィッシュ宗団の現在トルコに伝承されているメヴレヴィー教派の宗教舞踊と音楽である。儀礼の基礎はルーミーの詩の朗唱とセマーと呼ばれる旋回舞踊から構成されている。地天を示す方向に左右の腕を上下に掲げて、頭部を左方にかたむけ、10人の修行者の舞い手が円となり、延々と吟唱者の朗唱と伴奏音楽にのって旋回しつづける。規則的な旋回や回転は、ミクロの原子からマクロの惑星地球の自転や公転はいうまでもなく、季節の巡り、身体内の血液の循環にみられるように、自然に通底する生命を可能ならしめる基本的現象である。宇宙が回転するというその根源的原則に、舞踊と音楽をとおしてデルヴィッシュと呼ばれる修行者は、旋回舞踊を儀式の中核とし、宇宙のリズムと内的に共振しようとする。その舞踊をとおして自我意識から解脱し、神人合一の神秘体験に至ろうとするらしい。儀式の初めの舞い手は両手を胸に交差させて挨拶をする。それは天地が二つ一つである象徴的動作との説明であった。つとめの第2節「地と天とをかたどりて、夫婦をこしらえ」の「こしらえ」に対応する動作とまったく同じ動作である。伴奏楽器はネイという葦笛、ケメンチュというギターに似た伴奏リュート、ベンディルというタンバリンとボンゴに似た小太鼓であった。リズムも音域もつとめの地歌にちかく、緊張せず自然にうけ入れることができた。
セマーの旋律は単調そのものに最初は思われたが、だんだんと聞き慣れるにつれて、微かな即興によるズレとゆらぎが感じられ、音調が聴覚をとおして精神に内面化していくのが感じられてきた。リズムの周期は短いので2拍から多いので120拍にも及ぶという。耳を澄まして音響効果抜群の回教ドームの薄暗い灯りのついた舞台のなかで、その音楽を聴き、旋回舞踊に目をこらしていると、旋回してない鑑賞者である当方がめまいを感じるほどであった。西洋音楽とは異質な東洋音楽の微妙な川の流れを思わせる音調の中から、微かに「みかぐらうた」の「よろづよの」出だしと「なむ天理王命」の神名をとなえるに似た調べが突然伝わってきたと感じた瞬間に、意識が振り出しに戻った。とくに「をびやつとめ」の旋律において、「なむ天理王命」の祈りが繰り返されるつなぎの間に発声される「突き上げ」的唱法に共鳴する音色のながれは、両儀式が夜の暗闇の宗教建築空間においてなされる故か、その音律には通底する雰囲気が重層的に感じられた。
著名な民族音楽家・小泉文夫が、天理教のつとめの音階は、日本土着の旋律というより、ユーラシア大陸につながる高い文化の音楽的基層に繋がっているという意味が、奇しくもカッパドキアで納得されたような不思議な感覚をあじわったのである。

2007年6月
「元の理」にみる世界伝道への覚醒

「元の理」のテキストである「こふき」話には、海外伝道の原型的な叙述がみられる。それは、泥海の中から親神の守護によって、人間が五尺に成人するに応じて海山も天地も世界も皆出来て、陸上の生活をするまでに、食物を食い廻り、唐天竺へ上がって行ったことを象徴的に物語っているところに暗示されている。
和歌体十四年本(山澤本)には、 
 みづなかをはなれでましてちのうへに
 あかりましたるそのときまでに 
 せゑじんにおふじじきもつりうけいも
 ふじゆなきよふあたへあるなり 
 だんへとじきもつにてハくいまハり
 からてんじくゑあかりいくなり 
とあり、説話体十四年本(手元本・二)では、
三尺より五尺ニなるまでじきもつをだんへとくいまハり、からてんじくまでもまハりいくなり。
とある。ここでは、和歌体の「上がり行く」が、「廻り行く」となっている。
また説話体十六年本(桝井本)の「神の古記」では、
人かす九億九万九千九百九十九人のうち、やまとのくにゑうみしろしたる人げんわにんほんの地に上り、外のくにゑうみおろしたる人間わじきもつをくいまわり、から、てんしくの地あかりゆきたものなり。
とある。
「こふき」話のこの下りは、人間が生みおろされた場所の魂の因縁により、上陸する「外のくに」が予定されているかのような語りになっていて、きわめて興味深い。このことはまた、「から・てんじく」の地に上がり行った、あたかもその「こふき」話における魂がなさしめるように、その人は海外布教師を選択するのが宿命としてあるかのような感じをあたえる。文中、大和のくにへ「うみしろしたる」は「産み下ろしたる」の漢字がほどこされているが、これを「産み印したる」と読み下すことが可能であれば、「産み印したる」は単なる出産ではなく、生まれた場所、出生地に重点がおかれるという解釈がなりたつのである。戸籍や個のアイデンティティを証明するさいに、出生地が問われるのは「こふき」話に隠喩されていたとも解釈できる。
移住の主たる原因が食であることは、農耕民族が干ばつや争いが原因で、食を求めて安住の地へ移動してきたことをみてもわかる。歴史にみる諸民族の大移動も、基本的には新天地に食を求めることが文化の交流を可能にした。世界の諸文明は「元の理」の順序原理によって形成されてきたのである。天理教の海外伝道は、「移民伝道」が主体となってはじまったのも納得のできるなりゆきである。計画伝道や使命観伝道時代の到来は、中山正善2代真柱が発議・推進された天理外国語学校創立の趣旨にみられるように、「智慧や文字の仕込み」のあとにやってくることは、伝道史がくわしく伝えているところである。
使命観伝道は、教祖の世界たすけの熱い親心に触発されてうまれる。しかし、それには決定的な「回心」が経験されねばならない。使命観伝道への「回心」は、理論や学問にはなじまない世界からやってくる。「回心」とは、こころを裏返すこと、志を翻すことである。その契機は、しばしば予想外の病をとおしてやってくる。身上は神のふかい思わくがこめられた「てびき」であるから、そこから引き出される布教師の世界たすけへの「身代わり」的決断は、自分がそのためにこそ生まれてきたという自覚をいっそう強固なものにする。この史実における諸例の重大な教学的意義は、近著『天理教の世界化と地域化─その教理と海外伝道の実践』(日本地域社会研究所刊)のなかで、海外伝道を意味すると従来説明されてきた教祖のお言葉である「船遊び」(『逸話篇』)のあらたな解釈をとおして展開した。読者のご批判を期待している。
# by inoueakio | 2007-01-01 10:49 | 巻頭言集