第三回ウガンダ貧困緩和自立支援調査研究活動2009年報告書
2009年9月2日 井上昭夫記 今回の他者への献身プロジェクトは二班に分かれて推進された。 第1次隊は、おやさと研究所所長の河口尊助手、渡辺菊眞高知工科大学准教授、江崎貴洋環境デザインスタジオ・セブン+4、と高橋俊也環境造形システム研究所員の4隊員からなり、河口以外は学外よりの自費参加で、渡辺は本学の過去における企画に参加したベテラン建築デザイナーであり、建築史の専門家である。渡辺、江崎は土嚢建築をヨルダンでもNGOから依頼されて、ここ数年その仕事に携わっている。 第2次隊は、筆者と「カブールトライアングル」の製作共同者ハグマシーン代表の井上春生映画監督の2名であった。第1次隊は、8月4日に関空を出発し18日に帰国した。第2次隊は、8月8日に出発してウガンダで第1次隊と合流し、14日にウガンダを立ち、デリーに3泊した。デリーでは、カブールより招聘したAfghan Film の所長アーマド・ラティフ映画監督をまじえて、South Asia Foundationの書記長を勤めるラフール・バルァ氏と映画による平和構築に関する情報交換を行った。ラティフ氏は本学創立80周年記念事業であるシンポジウム参加のために来学し、記念講演を氏の製作した映画紹介とともに地域文化センター主宰の記念プログラムで行ったことがある。一方バルァ氏は1991年に発足したゴア国際映画祭の主宰者で、氏からは現在準備中のインドを中心とした近隣8カ国のBuddha and Peaceのドキュメンタリー映画の日本紹介や、新映画企画についての共同制作を提案された。話し合いにおいては、来年度の平城遷都1300年祭記念事業に結びつける映画製作企画の可能性を検討した。くわえて、同基金が開発する貧困地域を視察し、陶器製造を主とした家族単位作業の映画記録撮影を克明に行った。加えて宿泊所の近くにあったサイババ寺院などを早朝訪問し、参拝者へのインタビューや映画撮影をおこない、19日に帰国した。 第1次隊は、白ナイルの源流があるジンジャ市近くのUganda Namutumba Isegero に位置するブソガ族の寒村において一週間にわたり土嚢建築をおこない、一棟のドームモデルを現地の建築家などとともに完成した。彼らは我々との作業に学んで、渡辺氏が設計したユニットを独自に将来仕上げる予定である。事の発端は、昨年マケレレレ大学の合同会議で紹介されたヴィクトリア湖畔カージにおいて建築を始めた自然建築・土嚢ドームに倣ったシェルターを建てて欲しいというMultiversity Paolo Wangoola 学長の依頼による。ワンゴーラ学長はブソガ族出身で英国に留学した知識人であり、消え行くブソガ族の言語と文化の保存に意欲を燃やしている反グローバリゼーションの先鋒として知られる人材である。出発前の彼との主義思想論議に関するメイル交換はゆうに一巻の書物になるほどである。 一方気がかりであったカージのエコヴィリッジ・ユニットのその後と、アグリトピアの原型は植樹によってほぼ完成に近づいていた。ユニットの中心棟は約8メートルの高さで、3000枚の土嚢を積み上げたドームである。自然建築カテゴリーのホープである土嚢ドーム建築界においては、世界一の高さを誇り、ギネスものだと感動した次第である。 第2次隊は、到着直後Isegero village にむかい第1次隊と合流し、ワンゴーラ学長を主体とするブソガ族の植林やアグロフォレストリーなどを視察。第1次隊が完成したモデル土嚢ドームや土着の伝統的住居などを視察し、ブソガ族をはじめ子供達や家族の生活様相などの映画撮影をおこなった。今回の土嚢建築には400枚の土嚢を日本から持参し、昨年参加したカージ村における土嚢建築経験者であるキクング村出身の孤児一人の協力を通訳と実務をかねて依頼した。 1次隊の河口は2次隊の到着後一次隊と2次隊がインドへ出発するまでに合流した。上記自費参加の他学の3名は、首都カンパラにおいて自主行動を取り東アフリカの伝統的建造物の調査をおこなった。河口は、日本から持参したMJCO2 デジタル CO2 モニターとクリーン・チェッカーを使って、34箇所において空気・大気汚染と水質汚染の調査を行った。 キクング村では、天理丸に乗船し、貧困離島において浄水器を使用した。昨年寄贈したこの浄水器は、マケレレ大学自然科学環境所のJames Okot教授が、ウガンダの各地において調査研究中のものを一時拝借したものである。日本から持参した100枚の大型のビニール袋にヴィクトリア湖水の汚染した水を浄水し、現地の主婦や子供たちに約2時間手動で飲み水を提供し、感謝された。キクングにおいては、新しい布教所(那美岐大教会系キグング集団所)の仮神殿が立派に完成していた。天理丸はそのそばにあるヴィクトリア湖畔に係留してある。孤児たちを支援する集団所が経営するNGO・どじょうの援助資金は、天理丸を貸し出すことによる収入が基金となり、かれらの生活の基盤となっている。天理丸の寄贈が自立支援の目的の一端を果たしていることを知り、感動した次第である。今回も準備段階において本学卒のウガンダミッションセンター石原藤彦所長の協力を得た。筆者は到着直後の現地人との打ち合わせにおいて、脳梗塞後遺症を伴う疲労のため意識を失い、救急車で病院に運ばれたが、翌日からは不思議に予定をどうやらこなして無事帰国した。すべてに感謝している次第である。 #
by inoueakio
| 2009-09-01 12:53
| アフリカ
2009年7月
海外伝道における「律」と「心定め」 憲法を有する国家には、その国特有の歴史や伝統的宗教、そして国際政治的立場を決定する「律」というものがある。たとえば、徴兵制度、良心的兵役拒否、代理母、堕胎、死刑制度、同性愛結婚の是非などである。こういったグローバルな問題に対する意識は、海外だけでなく派遣主体国家自身における布教師にとっても最重要点となる。信仰における神の「理」をとおすとは、「理」を知ることをふまえて、「理」が分かることが前提となる。「理」をとおすとは、教説をことば通り単純に反復主張するのではない。とくに海外においては、その国において責任をもって布教する一人の異文化伝道者が、本国では体験できない異文化の「思案」のフィルターをとおして解釈し、あるときは異文化の価値観や自国の「律」を否定し、相互矛盾を超えていく責任を伴う勇気が求められる。文化適応や説教や祈願だけでは真の救済伝道にならないからである。 救済儀式を否定する国家の「律」があっても「心定め」が第一であると教えられた天理教教祖年祭の元一日となる神人問答の意味は、教祖の命がかかった決定的瞬間における教史の単なる反復解説に終わるものではない。それは、いつでも、どこにおいても、最も真剣に己の命を代償にして問われ、実践されるべき課題であることを認識しておかねばならない。とくに現代の宗教者にはこの点が問われている。しかし、日本の宗教者はなべてあれかこれかの二者択一を突き詰められる問題からは逃避しがちである。 現代における組織の縦系列にある海外伝道者の心理と苦しみのレベルは、単純な「知識」のレベルに短期的に居座って異文化圏において研究・発言している文化人類学者や護教的宗教学者とはその中身が異なる。しかし布教師が悩まされるのは、じつは語学以前の問題点にある。そこには現地伝道者の気持ちが、なかなかストレートに派遣国主体者に伝わらないという現実がある。他の日本の宗教もレベルの差こそあれ、類似的問題をかかえているが故に、文化・政治的に複雑な問題については、明確な回答を避ける傾向にある。海外伝道者の派遣主体はおおむね異文化体験者ではないから、日本的な形式や制度が絶対であり、それを変更・改変しては、教理の普遍性が通用しないという思い込みが未だにあるようだ。世界宗教者平和会議などが虚しいのは、このような隠された背景が原因となっているのかもしれない。 天理教を例にとれば、英語版の手振りと調和可能な「みかぐらうた」試案は、日系二、三世信者たちの長年の努力によってほぼ完成している。ならばなぜ、派遣主体責任者がそれを採択する方向に積極的に進めない原因はどこにあるのだろうか。試案が不十分であるからという言い訳は、完成にかぎりなく近づける「心定め」と努力によって解消する。原因の根本は、非日系人対象の布教意欲昂揚にむけた積極的な戦略や苦しみの体験を本国の指導者が共有していないからであろう。「世界化」に向かう正しい総合的理解力なしには、異文化布教現場における問題点に感情移入はできない。また、教えの「地域化」もありえない。 だからといって現地の意見を差しおいて一足飛びに「てをどり」の動作に対応する「みかぐらうた」の翻訳権威本をつくり、それを派遣主体が現地に採択を押し付けることは拙速にすぎる。神言の「理」をはき違えてはならない。まず海外の諸地域において、それぞれの海外布教師が現地の受容者と協力して試作本をつくり、それを持ち寄って統一見解に至ることがのぞましい。じじつ韓国においては、それがほぼ実現して成功している。原典の外国語翻訳や儀式の諸形態についても同様の原則が当てはめられるべきであろう。一世紀の伝道体験を経ても、天理教海外信者のほとんどが日系人で占められている原因は、いまだに明治20年の「おさしづ」のキーワードである「律」の意味を「グローカル」に解釈しようとする意志とパラダイムに目覚めていないからだろうと思われる。 2009年8月 マイケル・ジャクソンの「顔」と「元の理」 「ポップの帝王」と称された米国の歌手マイケル・ジャクソンが6月25日に50歳で急死した。各紙が一斉にトップ記事で報じ、ファンが病院に殺到したという。ダンサーに囲まれて踊りながら歌うスタイルは彼があみだしたもので、今の日本の音楽シーンもマイケルの影響なしには語れない。彼が急逝して今日で10日目だが、米国は依然として追悼ムードに包まれ、日本のメディアの報道も「マイケル現象」に加熱気味だ。「スリラー」1億枚を売り上げたポップの帝王の生涯は、整形・醜聞・借金まみれの一生でもあったという報道には別に驚かないが、マイケルといえばすぐ思い出すのは、ポップのリズムではなく、華麗な「ムーンウォーク」のあの天才的な動作を見せた瞬間の映像だけである。「ムーンウォーク」といわれる見たこともなかった独特の動きは、思い出すと今でも瞬時に月面の世界とつながり、背景の音楽は完全に記憶から消えている。あの動作が音楽を消し去ってしまったかのようだ。動作を音楽に合わせているのではなく、逆に音楽が動作に引きずられているような印象をもった。 考えてみれば月面は無音の世界である。アポロ12号で月面着地したピート・コンラッドや、地球に帰還したのち画家になったアラン・ビーンからも、その月面の持つ静寂さについては聞いていた。太平洋に着地し、カプセルから這い出て、救命ボートに乗り移るときに聞こえてきたさざなみの音に一番感動したと述べたビーンの言葉をいま思い出している。過去に数多く出会った世界の宇宙飛行士たちとマイケルのイメージが「ムーンウォーク」をとおして瞬時に重なるのは不思議だ。世界はあたかも彼が宇宙人であったかのような騒ぎをかもし出している。「不世出の天才」といわれているのは、絶え間ない努力に裏打ちされているからだろう。死ぬ数日前に、看護師にからだの片方は熱くてたまらず、片方は冷たくて、全身が縦に二極化されたような感じで我慢できないという意味の電話がかかってきたらしい。 身体を生かしている水と火、水気と温みの機能が極端に二分化するということは何を意味しているのだろうか。 筆者が関心を持つのは、マイケルの死因とか、音楽、奇行、遺産、遺書とかいった類のものではない。彼が白人に限りなく変身しようとするその行為の理由と、最後に見せた妖怪のように変形したあの「顔」である。その最後の「顔」はひと目で、目をそむけたくなる奇怪感と嫌悪感をもよおす。これが人種や性別、年齢の壁をこえるユートピアを作り上げようと努力してきた彼の夢の結末であったかと思うと、その突然の死の[顔]は、人生の収支計算以上の悲惨の極限を感じさせる。 作家トニ・モリスンの近著『慈悲』に、黒人が白人の奴隷商人をはじめて見たときの印象を語った場面がある。白人の肌があまりに白かったために、アフリカの女性が彼を「病気か死んでいるのかと思った」というのだ。マイケルも自己を純真さと愛らしさの象徴へと改造しようとしていた。「だが、そうした策略には行き過ぎがつきものだ。彼の顔はどんどん死人に近づいていった」とデービッド・ゲーツは『NEWSWEEK』(09.7.8)の追悼特集で語っている。 人間の「顔」は、こころを現す生命を代表する複合機関である。解剖学では「顔」を内臓頭蓋とよぶ。天理教の人間創造説話「元の理」において、「人間の顔」はまず神によって眺められ、その心を神は見澄まされたのである。親なる神は、その子供である人間の「顔」を見下ろし命令したのではなく、「面」と向って映し鏡のようにその「顔」と対面し、その「心」を見澄ました後、人間世界を創めることについて「神のそふだんしまりついたり」(ふVI-39)と教えられる。集団を代表する「顔」に対して、しない者の「顔」は「つら」とか「おもて」ともいわれる。表情のない「面」は、「面」と向うことのない上下関係であり、対面する「顔」に見られるような同等な関係を示していない。マイケルの変貌した「顔」は、その内面と矛盾したがゆえに破局をもたらした神への反逆であったのかもしれない。 現代の寵児マイケルの突然死は、宗教者に対して一体何を暗示しているのであろうか。 2009年9月 「宇宙教育」と「亀」の「つなぎ」 史上初の人工衛星は1957年に打ち上げられたソ連のスプートニク1号である。その宇宙からの発信音には、当時留学していたハワイ大学のキャンパスで仲間と共に聞き耳をたてた。アポロ9号のラッセル・シュワイカートは天理に3度も足を運んでいるが、彼は同じスプートニクの発信音をカリフォルニア大学バークレイ校の学生食堂で聞いていて、宇宙飛行士になる決心をしたと筆者に語ったことがある。その翌年、ソ連に遅れをとった米国はNASAを設立した。1959年には、ソ連はルナ2号を初めて月に到達させた。今年はその50年目の年にあたる。 最初に生物を月に送ったのはやはりソ連で、それはバイコヌールで採集した4匹の亀であった。ソ連の宇宙飛行士オレグ・マカロフから聞いた。一方『Diary of a Cosmonaut 211 Days in Space』 の著者であるヴァレンティン・レベデフは、インド洋に無事生きて帰還した4匹の亀を、カプセルから取り上げモスクワに持ち帰ったという。その後レベデフは高血圧症状を強靭な意志でのりこえ、ソ連の宇宙飛行士(コズモノート)となる。彼が宇宙滞在をサリュートー7号で211日間滞在したときの日記の抄訳は、拙著『こころの進化─「宇宙意識」への目覚め』(フォレスト出版、1997)で紹介している。 最初に「亀」が月を周遊した地球の生物であったことは、天理人間世界創造説話「元の理」において「亀」が女性や「つなぎ」の機能を象徴することを思うと、宇宙と人間の関係性を考えるに際しても、想像力ははてしなく異界へと広がって行く。 一方、若田光一宇宙飛行士が初めて国際宇宙ステーションからソユーズ宇宙船に搭乗したことを日本のメディアがいっせいに報道している。微重力船内での諸活動についても映像で珍しく取り上げられているが、宇宙飛行の歴史から見れば、これらはすべて宇宙教育としては一昔まえのレベルと同じ取り上げられ方だ。そもそも日本には「宇宙教育」というシステムが稼動していないのではないか。宇宙教育・スペースエデュケーションといえば、NASAが飛びぬけて充実している。 宇宙空間の商業的利用に反対するわけではない。しかし、これからの宇宙開発も、その進歩を促した同じ先端科学技術が惑星・地球環境の破壊をもたらしたように、宇宙環境破壊をもたらすかも知れない。宇宙開発によるロケットや衛星、そして宇宙船の破片はすでに膨大な宇宙ゴミとなって、いまこの惑星・地球を取り巻いている。こういった開発の陰の面に注意を向けさせるのは、科学そのものではなく、宇宙と人間、自然と生命の密接な関わりを認識する鋭い感性である。その感性は、正しい自然科学教育と人文・社会的教育のバランスによって育まれる。ここに真の宇宙教育の意義がある。 人間は心をもった存在であるから、必ずしも宇宙産業の拡大発展は、国民生活の内的・精神的成長に寄与するとは限らない。巨大な経費のかかる宇宙開発を否定するものではない。逆に、宇宙そのものが潜在的にもつ人類への教育的価値に注目して、1990年人文・社会系と自然科学系の学問に携わる学者・知識人の協力を得て、筆者が世話人となって日本国際宇宙文化会議が発足した。延べ数十人の宇宙飛行士を我が国に招聘して、各地でさまざまな国際シンポジウムや講演会、写真展などを開き、啓蒙に努めてきた。また、一昨年北京で開催された国際宇宙大学夏季講座に講師として参加し、宇宙教育に関する情報交換をおこなったが、関心は内面的宇宙の方向に逆転し、外的宇宙活動にたいする興味は薄れてしまった。 我が天理大学は2010年度の再改革に当たって、育成する人材像に「ローカル」に行動し、「グローバル」に考える「グローカル」な人材養成を掲げている。しかし、いまや価値観は逆転し、混沌化する世界は真に「ローカル」(内的・地元的)に考え「グローバル」(外的・世界的)に挑戦・行動する勇気ある人材を求める、新たな「亀」(つなぎ)の時代に突入しているのではないか。そのためには宗教私学として「宇宙教育」を取り入れることはその独自性を発信することになる。宇宙は神の「からだ」と教えられるからである。 2009年10月 政権交代と地方自治選 8月30日の第45回総選挙は、民主党が単独過半数を獲得、新政権が発足することとなった。日本の民主主義の前進が、衝撃的な数字で示されたのである。この総選挙は明治憲法が発布された1889年から数えて120年、日本憲政史上、初めての大事件といわれる。自民党は公示前勢力の3分の1余りに激減する衝撃的な惨敗。1955年の結党以来続いた自民党「第一党」体制は、圧倒的な数字で終止符を打った。全国の投票率も平均69.28%で、現行制度では過去最高。奈良県も過去最高の71.4%を示した。しかし、53,427名の有権者をもつわが天理市の投票率は68.04%で、県内市町村別投票率では最低の数字を示している。政治や行政に関心が低い宗教都市と評価されても仕方がない。 奈良県といえば、県内市町村の平均経常収支比率が07年度決算で98.6%で、2年連続全国ワースト1になったと発表され、赤字市町村数も7市町で3年連続で全国最悪。同規模の自治体に比べて職員数が多いことや、バブル期以降に景気対策で立ち上げた公共事業の借金返済などで、財政状況は前年度より悪化しているといわれる(『毎日新聞』2009年4月10日)。天理市はその象徴的存在で、たとえば13万坪もある福住テクノ開発予定地の頓挫で、あらたな解決策やヴィジョンを長期間提示し得ないまま、毎年2億円の借財を市民税や寄付金などで支払い続けている有様である。財政状況を立て直すためには、他府県や市町村が懸命に改革しようとする政策モデルに見習って、しかるべき役職の退職金の廃止や、入札システムの徹底した改革、そして補助金などの支出実態の説明責任を市民に果たし、見直しを速やかに実施すべきであろう。 上記懸案に関して、衆院戦の圧勝で新政権に動き出す民主党の「現在計画中または建築中のダムはすべて凍結し、地域自治体住民とともに必要性を再検討するなど、治水政策の転換を図る」とするマニフェスト(政権公約)に対して、選挙の翌日早くも国土交通省が、9月に実施予定だった八ツ場ダム(群馬県)に関する、本体工事の施工業者を決める入札を凍結する方針を固めたという変化に注目したい。この動きを受けて、ダム以外の公共事業においても同様の動きが地域行政に広がる可能性がでてきたからである。その翌日の9月1日(『毎日新聞』)には、列島各地で建設・計画中のダム事業が大きな岐路に立つこととなったという激震情報が、関連する府県知事、反対地元議員、そしてNGOなどに一挙に広がった。「ダムは地域住民の民意を反映していない。どれほどのメリットがあるのか」との思いが強い。環境問題や治水効果、経済効果に疑問をもつ人たちに、ようやく転機が訪れ、新政権に大きな期待を寄せ始めたのである。 筆者はかつて日本海におけるナホトカ号の重油事故環境汚染修復事業に際して、米国の環境庁サンフランシスコ支部に重油のサンプルを届け、福井県三国町の現場でバイオレメディエーションという微生物による汚染サイトの修復技術を活用しようとした。またエクソンバルディーズ号事故に関わった専門家を米国より招請・紹介し、国際シンポジウムを企画・開催したり、米国各地の汚染地修復実験場を視察した。現在東アフリカで行っている持続可能な貧困緩和自立支援事業についても、バイオの活用を採用している。つまり、エコロジーに関する環境問題については人一倍に関心がある。 そのような次第で、たまたま友人から一昨日、化学物質による汚染問題に取り組んできた「奈良ごみの会」代表の別処珠樹『ごみクライシス』(技術と人間、1999年)を薦められ一読して驚愕した。大和高原の幹線・国道369号線につながる「柳生街道」は、すでに「産廃街道」であるという実態が赤裸々に検証されている。「柳生街道」は福住町や「山辺の道」とは無縁ではない。ローカルの視点が欠落していたと深く反省した次第である。 国選の激風を受けて、10月の天理市長選・立候補者の「マニフェスト」に注目し、賢明な選択を行い、財政全国最悪県における最悪市の汚名返上にむけて、一市民として天理市行政改革の実施に注視・協力したいと考えている。激動の再出発はなるか。 2009年11月 スピリチュアリティと宗教間対話批判 神秘主義者イヴリン・アンダーヒル(1875~1941)は、フリードリヒ・フォン・ヒューゲル(1852~1925)から強い影響を受けて、真の宗教生活は、「組織」、「知性」、そして「神秘性」の3要素から成っているとした。彼女がその著書の中で一貫して強調している点は、「霊性にある生活とは現実の社会と具体的な関わりを持つ生きかたのことだ」というごく当たり前の結論にある。彼女は、その主著『礼拝』(1936)の中では、個人中心的神秘主義に反発し、他のさまざまな信仰に基づいた「共同体」の重要性について書いている。 それはマルクス主義的分析を援用して、人間を取り巻く不義や葛藤の諸問題を明確にし、社会・経済の革命を目指す「解放の神学」の現場における「基礎共同体」のカンペシーノと呼ばれる貧しい小作農の集まりや、フランスの片田舎にあるテゼ共同体「和解の教会堂」を想起させる。テゼ共同体は第2次世界大戦中に創設され、共同体のメンバーは主としてカトリックとプロテスタントの双方から成っていたが、礼拝にはソ連の正教会のイコンも置かれ、正教会でない人たちもその伝統にしたがった礼拝をしているという。修道士たちは、世界各地にある貧困地域のスラムに住み込んでいて、ヨーロッパで開かれる集会には十万人もの若者が各地から押し掛けているといわれる。 筆者が注目するのはテゼ共同体にやってくる修道士たちが、所属する教派の僧院や教会に閉じこもっているのではなく、スラム街に貧者とともに生活しているという信仰の原点、つまり日常性に回帰しているという事実にある。本来、真の宗教的霊性やエコロジー的感性は日常性のなかに姿を現すのであろう。テレビ番組「オーラの泉」のお遊びや、心理療法士の癒しとは異質の世界にある。 テゼ宗教共同体やカンペシーノの「基礎共同体」における宗教指導者には、「日常性」と「霊性」における、異宗教間での信仰の和解の実践が見られる。それは、最近我が国における宗教指導者のヴァチカン詣で、そして国際宗教者平和会議や宗教間対話に散見される非日常的儀式などとは極めて対照的である。霊性やエコロジーに関する意識と、そこから導き出される行為が信仰的に日常化されていなければどのようになるか。単なる異宗教間の祈りの交換や、世界宗教指導者間対話から抽出される他者との共存などというもっともなスローガンに見られる文言は、平和宣言文の蛸壺に収まるだけの話である。 大切なのは他者との共存を阻害する要因を鋭く指摘し、心性還元論に陥ることなく、相互批判と自己批判に耐え得る新たな思考と行為への覚悟がなければ、世界平和を語る資格はないと認識することである。それなくして宗教は、現実世界における貧困格差の是正やテロなどによる紛争の防止、そしてその背景にある国際的な政治・経済的構造の改革を前進させる力には到底なり得ない。筆者は近著『天理教の世界化と地域化』の「文化変容と海外伝道」という章で、宗教間対話の実態に対してその自己矛盾的ありかたに痛烈な批判を行っているので、ここでは繰り返さない。 実践が欠落した保守的宗教家の教説は、その組織に所属する目覚めた信者を教会や寺社から遠ざける。つまり、皮肉にもと言おうか宗教家や宗教学者の非実践的・死学的状況が、現代における浅薄なスピリチュアリティ勃興の原因であるかのようだ。それが、貧困者・被災者などへの日常的祈りや救済活動とは直結しないエゴイスティックな霊性の浅薄さや自教会中心主義、そしてエコロジー理論の虚しさを生んでいると推測されるからである。 天災人為にかかわらず、環境破壊は人間破壊に直結する。その逆も真なりである。現代の宗教家に求められるのは、抽象的な祈りの類ではない。そのあるべき祈りは、まずその宗教家が居住する足元における地域社会の政治・経済的構造を背景にした住民の日常的実態を「グローカル」に感触し、正しく知ることから始まる。 2009年12月 新エネルギーの誕生と地方行政 鳩山由紀夫首相が、国連演説で温暖化ガスの大幅削減を提示し、グローバルな話題を提供している。潘基文国連事務総長は「今こそ行動の時だ。歴史はこれ以上の好機を与えてくれないだろう」と、先進国や途上国に取り組みの推進を力強く呼びかけた。しかし、国内では2020年に1990年比「25%」という削減目標は、高すぎるハードルだとして連合会長や電力総連会からも批判を浴びている。目標値を達成するためには、住宅の断熱化など各家庭でほとんど強制に近い対策が必要になる。国際的協調に異論はないが、自国の国益を後回しにすることとは全く別物という意味の批判である。削減には努力はするが、日本の省エネ技術を生かし、途上国での排出量削減にまず貢献すべきだというわけだ。 しかし、困難な目標への挑戦は、人間と自然・エネルギーの関わりを大きく変える。長い間、近代化を支えてきた化石燃料の世紀が終焉し、太陽光、風力、バイオマスなど再生可能な新エネルギーの世紀が到来した。石炭や石油、そしていつまでも原子力に依存する産業は衰退するだろう。人類はその生存を賭け、新エネルギーの世紀に向けて産業構造の転換を迫られている。悲観することはない、チェンジは常にチャンスでもある。「鳩山イニシアチブ」構想のスピーチライターとも言われる福山哲郎・外務副大臣は「(温暖化ガスを)多く排出する企業に配慮しないとは言わないが、削減によって起こる産業構造の転換、新産業の創造は、自社のビジネスチャンスになり得る。大胆な切り替えができるのが、政権交代ということだ」と説明し、温暖化ガスの削減を、単なる環境対策やエネルギー政策にとどめるつもりはないと応える(『日経ビジネス』09/10/5)。 政権交代後、八ツ場ダム工事中止やハブ空港問題に象徴される国政と地方行政の拮抗・連携のあり方が重要な時局問題として浮上している。これらの問題は、地球温暖化対策における国家と国際政治、ローカルとグローバルの関係が切り離された問題ではないということを意味している。つまり、両極は呼応したグローカルな関係にある。具体的にいえば地球温暖化ガス削減の危機的問題をとおして、ローカルにも新産業創造ヴィジョンや、新たな思想・文化再生の構想力、そしてその実践的覚悟が市民に求められているということであろう。このような次第で、平均経常収支比率が3年連続ワースト1である奈良県の汚名返上が、県政や市町村の保守的市政と財政構造に対する具体的な転換への挑戦をとおして実行に移されることが期待される。がまず求められる。市民の命・くらしが一番などといった代わり映えのしない表向きは無難な安心・安全マニフェストを掲げていても、新しい世紀が要請する危機的問題にはとても実質的に対応できず、次世代からしっぺ返しを受けることにもなりかねない。市民の暮らしを預かる政治家は目的と結果を取り違えてもらっては困る。 宗教都市といわれる天理市では、10月の選挙において現市長が3選を果たした。投票率は55%。去る国選においても、天理市は奈良県の市町村で最低の投票率を記録した。天理市民が如何に政治に無関心であるかの証しである。市はまず財政節約を唱えるなら、限界集落・農業再生と、横浜市庁などが敏速に対応したようにLED照明採用やバイオマス活用のレベルから実践したらどうか。LEDは従来の照明機器に比べ、50%、白球電球と比べると、90%以上消費電力を削減する。有害な紫外線が殆でなく、虫が寄り付かない。日本の仏閣や宗教組織もつぎつぎと環境にも合理的なLEDに急速に転換・対応し始めている。 微生物や樹木の残骸である石油や化石燃料は、環境負荷がおおい上に埋蔵量に限界が見えている。風力は先進国デンマークが指摘し始めたように、低周波音が身体に悪影響を及ぼす。ソーラーは日照時と気候的な限界から我が国には非効率的である。管理に危険を常にはらむ原子力に依存しない、新エネルギー先端科学技術の誕生とその産業化が期待される所以である。 #
by inoueakio
| 2009-07-01 17:11
| 巻頭言集
アースウォーカーこと、ポールコールマン氏と、奥様の菊池木乃実さんが、天理大学おやさと研究所の井上所長をだずねてこられ、実在する土嚢建築のエコモデル・デザイニングセンター2を視察し、子供たちと、サクラやネズミモチを記念に植樹しました。その後、研究所において、2時間あまり、自然建築や環境問題についてお互いの情報を交換しました。
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by inoueakio
| 2009-06-13 14:44
| 最近の出来事
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