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2008巻頭言1月~6月号
2008年1月
「家族の絆」と一派独立百周年を迎えて

日本には毎年3万人以上の自殺者がいるといわれる。近頃は家族を支えてきた人たちの自殺が目立っている。文学者にも自殺者はおおい。たとえば、芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫など。芸術至上主義に向かおうとする作家の魂が自殺という形で「家族の絆」を切断する。というより芸術至上主義は、個の「家族の絆」の幸福を超えた普遍的世界でしか成立しないからであろう。世界宗教の宗祖や教祖にもおなじことがいえる。天理教祖も例外ではない。
一方、近代化がもたらした老齢化や核家族というグローバリゼーションの負のあおりを受けて、「家族の絆」が希薄化したとする現代の日本では、温泉旅行で「家族の絆」を取り戻せという旅行会社のキャンペーンもみられる。先祖との「家族の絆」を保つために墓参りの代行業社が繁盛し、お盆期間中は代行墓参りが1件につき18,000円であるという。家族利己主義に傾きやすい「家族の絆」は、商業主義に利用されかねない脇のあまさをもっている。長寿社会においては、儒教倫理の呪縛から解放された「絆」の現代的、社会的意味も再考されねばならない。90歳を超える病身の両親を70歳代の老齢者が喜んで世話をすることは肉体的にも至難の業である。平均寿命が45歳であったころの道徳規範にも、あらたな「家族の絆」の意味が問われている。また、宗教が人間の救済を目的とするかぎり、たとえばエイズや戦争孤児の「家族の絆」とは、何であるかという問題もその視野に入ってこなければならない。
また、「家族の絆」という言葉には、教学的反語が隠されている事にも注目すべきであろう。中山家の「家族の絆」を構成していた伝統的な「家」の概念は、立教の瞬間から、世界たすけの絶対的要件としてその崩壊が宿命づけられていた。「家族の絆」の切断は、教祖ひながたの道の前半にもっとも機能した「たいしよく天」の働きであった。「たいしよく天」の「切る」守護は、家父長的村落の伝統的な「家」の終焉を意味する嘉永六年の母屋のとりこぼちに収斂されていく。中山家の母屋のとりこぼちは、夫・善兵衞の出直しの後に行われたとみられる。母屋の一室で教祖に神が天降ったのだが、その場所が人間宿し込みの場所である「ぢば」という地点であった故に、勤め場所普請のための母屋とりこぼちは、「元の理」に基づいた当然の成り行きであった。その後に行われたこかんの浪速布教は、母胎に見立てられる大和盆地から、その臨界点である十三峠をこえて、天理王の神名が引き出されるという西方の「をふとのべ」の働きに対応している。つまり、こかんの浪速布教は、広義には盆地的閉鎖空間から、大阪平野の地平が出会う海洋世界文明への誕生宣言をも暗示していた。その誕生までには、立教以来16年間に及ぶ“陣痛”のひながたの道があったのである。
ここでは「十三」という数字にも注目したい。十三峠は人間宿しこみのぢば甘露台の「十三段」に対応し、嘉永六年の六という数字は、甘露台十三段の六角形と「六台始まり」や身の内「六台」という六の数字に対応している。翌安政元年は、日米和親条約が結ばれ、日本は世界にむけて開国を宣言した。この年、3女おはるがおびや許しを初めていただき、陣痛のさいには未曾有の大地震が勃発したが、安産のご守護をいただいた。おびや許しは、よろづたすけの道あけともいわれる。大地の激震と陣痛、そして神名の峠越えと日本開国宣言には、二重に合図立て合う世界とお道の両面鏡的予言が読み取れる。
本年は明治41年より数えて天理教一派独立100年目にあたる。一派独立とは教団の社会的誕生に見立てられる。白紙に戻り一より始めるという百年の歴史的意義はおおきい。課題は白紙に何を描き遺すかという私たちの確固たる意志であり、そのためには「峠」を越える自立的覚悟が求められるという認識である。

2008年2月
万能細胞の出現と宗教者の立場

2007年の暮れ、もっとも衝撃的なニュースといえば、人間の皮膚からあらゆる細胞になる能力をもった万能細胞(人工多能性幹細胞=iPS細胞)が作られたという報道であった。この日本発のビッグニュースは、再生医療、つまり移植医療につながる新たな医療開発技術に関するもので、世界では早くも「ノーベル賞級」と賞賛する声が出ている。iPS細胞は、もう分化しないはずとされている皮膚などの体細胞にES細胞に特徴的に働いている遺伝子を入れ、人工的に作られる。ES細胞とは、受精卵が分裂して100個程の細胞の塊になったところでバラバラにされた細胞であり、その塊は成長するにつれて分化能力が失われ、たとえば血液の幹細胞は血液に、皮膚の幹細胞は皮膚組織になどと、特定の組織にしかなれなくなる。iPS細胞とは、これまで万能細胞の代表格であった胚性幹細胞(ES細胞)と違って、受精卵を壊さなくてすむ。したがって、今回の成果は受精卵を使わないという意味で、拒絶反応や倫理的な問題を回避しながら、再生医療への応用におおきな期待がかかるという点にある。つまり、将来この技術は、心臓などの形のある臓器を、そして一人の細胞から精子と卵子も作る可能性をもつといわれる。「さる一人(いちにん)」が人間を宿すという「こふき話」が思い出される。
従来の発生生物学の常識では、皮膚や肝臓、胃腸など一旦組織の細胞に分化した体細胞は、もうそれ以上分化しないと考えられてきた。同じ人間の組織の一部分から、その人の血液や必要とされる臓器が作られるという肉体が実現すれば、人類は自動的にさらなる長寿を合理的に手に入れることとなる。宗教の教学はiPS万能細胞の出現にどのような対応が迫られるのであろうか。
これまで、たとえば癌などの医学的に不治であるとされる病が、信仰の不思議な加護によって治癒したという例はしばしば聞かされてきた。しかし、iPS細胞による臓器再生医療は、端的にいえば癌に犯された臓器を切り捨て、あらたに作り出した新鮮な臓器と取り替えればよいということを意味している。その意味で、この代替医療は宗教の奇跡の現象的領域を極端に縮小する。奇跡のない宗教は気の抜けたビールのようなものであるから、iPS細胞の出現をとおして、神は宗教者に対して奇跡の心魂における本来的場面を再生するように急き込んでいるかのようだ。
「西遊記」に再生医療のカーニバリズム的側面を連想させる挿話がある。人間を妻に持つ「妖怪」が三蔵法師の肉を食らえば一千年は生きられるということで躍起になっているとき、妻に「あなたがたとえ千年生きても、その時は私もこの子も死んでいます。それでもいいのですか」と迫られ、さすがの妖怪も返事に窮したという話がある。天理教における長寿の基準は、百十五歳と「定めつけたい」と「おふでさき」に教えられる。長生きすることが信仰の目的ではない。「心澄み切れ極楽や」と謳われるように、心が澄み切る結果として「病まず死なず弱らず」の百十五歳定命が与えられるということに力点がおかれる。いくら長寿や富貴に恵まれていても、病気や我欲、心の不幸に苛まれていれば、陽気ぐらしは出来ないからである。ここに科学とは異なる宗教の不変的存在価値がある。
自然の力と人工の合体が織りなす万能細胞の驚くべき働きは、神人合一の世界を映し出す現代の鏡のようだ。もちろん人間の長寿は喜ばしいことである。しかし、万能細胞のお世話にならずに、心身健康な100歳以上の奉仕者によって、たとえば全天理教の教会でのおつとめが完成すれば、世界は自ずと天理教に帰依することになろう。つまり、教会が「たすけ」の万能細胞的役割を果たすこととなるからである。これこそが究極の「たすけづとめ」の姿ではなかろうか。iPS細胞の新聞記事を読んで、西遊記の「妖怪」が思い出され、長寿の陽気ぐらしとは何かを考えさせられた。

2008年3月
第4回アフリカ開発会議と天理大学

日本外交は本年さまざまな意味で正念場を迎える。その一つは7月初旬の洞爺湖サミットであり、もう一つは5月下旬に横浜市で開催される第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)である。その間を挟んで世界宗教者サミットも企画されているという。後者は毎年サミット開催国で同時開催されている。宗教者が世界平和に向けて宣言書をサミットに提出するというものである。 
宗教といえば、アフリカ社会ではいまも土着の宗教や信仰の体系が色濃く存在している。いわゆる世界宗教は、これら土着の社会体系と競合し、包摂しながらローカルなひとびとと接触し、そこで暮らすひとびとを教化し、入信へといざなってきた。たとえば、西ケニアにおけるキリスト教伝道合戦のなかでは、聖公会は学校を建て、白人の価値観を内面化した現地人エリートを教育しようとした。フレンズ伝道団は、建築職人や被服職人などの職業教育に尽力し、水車を利用した水汲みや製粉作業を女性達に教え込んでひろまったといわれる。
天理教の東アフリカ伝道は、現在ケニアとウガンダで見られる。これらの地域におけるNGO活動は、大小の教育施設や職業訓練所、クリニックなどの社会福祉的経営活動を媒体として有能な人材を発掘し、日本に派遣して教義研修を施すという、アフリカ人指導者育成の段階に入っている。すでに天理教本部で修養したアフリカ人信者は数十人に及んでいる。しかし、奇妙なことに、これに対応して、現地語で天理教の布教活動ができ、アフリカ人信者を異文化のさまざまな土着化における問題を意識して、教学的に指導できる日本人伝道者の数は圧倒的に少ないのが現状である。アフリカ人信者の修養が先行し、日本人伝道者の育成が遅れている。いわゆるNGO活動や伝道者個人の情熱に依存する海外布教の挫折は歴史の示すところである。伝道とは基本的に思想の伝播であり土着化である。それは日本語を教え、道路を作り、学校を建て、井戸を掘るといった一過性の物理的支援作業とは基本的にことなっている。
海外伝道者養成を目的として設立された天理大学は、卒業生がすでに布教師として活躍する東アフリカの現実とどのように関わるかがいま問われている。伝道拠点の充実展開を目指し、大学はアフリカに留学生を派遣し、海外伝道や学術的人材養成に貢献できる立場にある。交換留学の対象地域が先進国だけで、単なる語学研修が目的というのはいただけない。それを否定するわけではないが、交換留学はどこの大学でもやっていることである。宗教私学である天理大学の独自性は、伝道活動につながる語学研修を目的化してはじめて発揮される。
天理教団の支援なしには存続し得ない天理大学は「教学協働」の基本方針を打ち出した。その理念に立って、大学は東アフリカを焦点に新たなプロジェクトを2007年に立ち上げた。その第1回学術調査団が昨年の8月に派遣され、周到な準備のもとウガンダのマケレレ大学において「グローバル・テクノロジーの連携」というタイトルのもとに国際シンポジウムが開催された。現地大学の教員や学生をはじめ政府の関係省庁の人たちを含めて100名近くの参加者があった。現地での準備に奔走してくれたのが、布教師として活躍する本学の卒業生やウガンダに拠点を置く布教所の信者たちであった。他学では見られない独自の試みであった。
わが国が主導するTICAD IVには、アフリカ大陸53カ国より40数カ国の代表が来日し、アフリカ開発に関わる先進国や世界銀行、国連諸機関などを加えると千名を超える参加者が見込まれている。東アフリカ5カ国(ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンジ)の共同体(EAC)が、今この会議に提案するために、エコヴィレッジとヴィクトリア湖上大学のプロジェクトを立ち上げる準備に入っている。そのコンテンツは主として天理大学第1回東アフリカ学術調査隊の報告書を踏まえたものとなっている。本年8月に予定されている貧困緩和自立支援を目的とした、天理大学の第2回学術調査隊の活躍がEACや各方面からも期待されている。

2008年4月
「生れ更り」と「出直し」:群相と単独相

人間の心や行動の起源を探る「比較認知科学」の最先端から見れば、チンパンジーは、一匹、二匹ではなく、一人、二人と数えるべきだと京都大学霊長類研究所長の松沢哲郎教授はいう。その世界の最先端をいく霊長類学の成果にふれて、天理教の創造説話として知られ教祖から口授された「こうき」話の「さるがいちにんのこりいる」という、猿を人称で呼ぶその表現に妙に納得した。「めざるが一匹残り」という復元教典の「一匹」という言葉は、進化論を連想させるが、教典編纂当時、戦後の科学的水準に基づいたものではなかったかという推測にもつながる。もちろん昔から、孫悟空をはじめとして、猿は神の使いとして動物をこえた次元の物語のなかで親しまれてきた。神を一匹、二匹とは呼ばない。木には神が宿ると信じられていたことから、日本古来の神や神体は一柱、二柱と数える。ちなみに英語教典では「雌ざる一匹」をa female monkeyではなく、a she-monkeyと訳している。前者は雌ざる「一匹」、後者は雌ざる「一人」に近いニュアンスをもっている。訳語の方が「こうき」話の表現にちかい。
ゲノム(全遺伝情報)からすると、普通の人間とチンパンジーは98.8%、猿でも92%、植物のイネでも40%は人間と同じだといわれる。人間は地球の生物として、動物や植物とも連続している。「元の理」の創造説話では、生物が人間に成人するプロセスを、母親なる「いざなみ」が出直した後、虫、鳥、畜類などと八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残り、その胎に男五人女五人の十人ずつの人間が宿ったとある。「めざる」は、道しるべとして知られる猿の道祖神や「滅せざる」とも解釈されるが、それが女性であり、単数であるところに意味があると思われる。元日本モンキーセンター所長の河合雅雄は、年老いた離れ雌ざる一匹からあらたな群が発生するケースを興味深く報告している。
小進化としての「生れ更り」と大進化としての「出直し」を解説したのち、この雌ざる一匹の単独相に注目して、博物学者として著名な荒俣宏は、「博物学と『元の理』」(『「元の理」の象徴学』─講座「元の理」の世界2)の中で次のような鋭い指摘をおこなっている。昆虫は一つの個体が変態して幼虫から成虫になるという二種の生き方ができるが、成虫の段階でも二つの生活をまるで二重人格のようにすることができる。たとえばバッタは、単独にいる状態の自分と群れる状態の自分という二通りの生き方をする。通常一匹では葉蔭でおとなしく暮らしているバッタやイナゴが、突然雲のようになって群れ、稲などの植物を襲撃するという特異な現象がある。つまり、群相になった段階で色が褐色になり、乱暴になり、成熟も早くなる。群相は完全に人格、バッタ格を変質させる。「元の理」では泥海の群相から、人間は陸上の単独相に変化していく。つまり、泥海の「群れ」状態から陸上では「一人」になる。
一方、近代における自我の発見は、単独相、個人という存在を非常に重要視することとなった。人間も最初に群相であったと同じように、そしてイナゴが環境の悪化のために突如として凶暴化するのと同じように、単独相から群相に変化するときがある。日本の戦時ファシズムも突然我々日本人が群相に戻ってしまった結果だという比喩も可能である。そのとき、その群相をいかに制御するか、あたらしい基準とはなにかが「元の理」から展開出来ないかという提案である。荒俣は群生するときと、単独にあるときの人間の生き方のプロセスを、「元の理」から総合的に紡ぎだせないかと問うている。いま続発する世界のテロや紛争の中で、略奪行為や暴動が連鎖的に発生している。それはあたかも、平時はおとなしい人間がバッタに変貌した群相の襲撃を見ているような感じがしないでもない。

2008年5月
バイオエタノール生産にアフリカの竹類を活用せよ

バイオエタノールとは、トウモロコシやサトウキビなどのバイオマスを発酵させ、蒸留して生産されるエタノールのことをいう。バイオエタノールはアルコールの一種であるから、ガソリンに混ぜることで自動車燃料としてもつかえる。植物は二酸化炭素を吸収して育つため、燃やしても二酸化炭素の総量は増えない。したがって京都議定書では、バイオエタノールを燃やして発生する二酸化炭素はカーボンニュートラルという理由で規定対象外になっているから、石油など化石燃料から切り替えた分だけ温室効果ガス削減になる。
ブラジルでは1リットル30円で製造され、ガソリンにエタノールを20〜25%混合することを義務付けている。米国では農業政策の一環としてエタノールバイオマス生産に膨大な補助金が注入され、2005年包括エネルギー法では2010年までにバイオエタノール利用を年間2,839万キロリットルまで拡大するとしている。ドイツ、フランス、スペインもエタノール混合に税制優遇措置を導入している。
一方、わが国の「京都議定書目標達成計画」では、2010年度までに原油50万キロリットル相当分をバイオエタノールなどの植物由来の燃料で賄うことにしている。日本政府は90年比で温室効果ガスの6%削減を義務付けられているから、この計画は削減必要量の1%に相当する効果があるといわれる。石油連盟はバイオエタノールをブラジルから輸入し、また、アサヒビールではその蒸留技術を活かして、サトウキビを原料にバイオエタノールの生産を始めた。山形県新庄市ではバイオエタノールを直接3%まで混ぜた自動車用ガソリンの販売が解禁されているが、ガソリンより製造コストがかさむために普及はすすんでいないといわれる。バイオエタノール製造には、現在主としてトウモロコシやサトウキビなどの食料用作物が利用されているから、需要増加は逆に価格高騰をもたらし、飢餓に苦しむ貧困層への食糧政策に深刻な影響が出るという問題をもたらす。
筆者は生化学者ではないから、専門的な知識は持ち合わせていないが、貧困層に悪影響を及ぼさない植物種からエタノールが生産できないかと考えている。たとえば今アフリカで異常発生しているヒヤシンスや竹類からのエタノール製造である。前者は湖沼の生態系を破壊する異常繁殖植物としてビクトリア湖などではその駆逐方法に頭を悩ませているが、Hope for Africaではヒヤシンスを培養基としてキノコを生産し、AIDS治療に役立てる実験に入っている。また後者の竹類は、学名オクシナンデラ・アビシニカとよばれるが、東アフリカの高地に植生する俗名ウランジといわれるもので、その竹の子一本からは1日に1.5リットルのアルコール成分が注出できることが分かっている。現地ではビールや砂糖の代替として常用されているもので、とくにタンザニアではその習慣は何世紀もつづいている。竹類の成長力は強靭であり、サトウキビやトウモロコシとは親戚筋にあたる。
そのウランジの竹根を5本昨年タンザニアから日本に持ち帰り、そのうち1本が天理の温室で見事に根付き、生育している。2年後に竹からのアルコール分採集を期待している。すでに成分解析によって数種の酵素が発見されているが、これがべンチャービジネス化すれば、エタノール生産はもとより、自然健康飲料水としても役立つだろう。本年9月の天理大学第2次東アフリカ調査隊では、ウランジ竹林の現場検証をも行程に入れているが、専門家が同行を願い出てくれればよりこころづよい。バイオエタノールを専門とする企業や政府機関が、竹の国ともいわれる日本において竹類の隠し持つ環境改善力に注目されんことを期待したい。「根節から芽を吹く」という神言が重なる。根の節々から大地を突き抜けて力強く芽を吹くエネルギーは、竹の子以外に考えられないからである。

2008年6月
オリンピック聖火紛争の教理的解釈

チベット自治区の首都ラサで起きたチベット族による抗議行動に対する中国政府による武力弾圧は、北京五輪の聖火リレーへの妨害活動という形をとおして、非難表明がなされるという異常事態を引き起こしている。
中国は日本のかつての満州国支配を植民地支配として非難してきたが、チベット語やチベット仏教の布教を禁じ、傀儡宗教指導者を立てるのは「文化的虐殺」であり、時代錯誤の植民地支配であるという厳しい批判が日本にもある。その批判をかわすには、中国には少数異民族の宗教的文化的自由に対する要求を武力で抑えることにピリオドを打つという高度な政治的結論がなされなければならない。その鍵は、ダライ・ラマ14世と中国政府代表が問題解決のための対話をとおして、相互が実現すべき条件合意如何にかかっている。ダライ・ラマは中国からの独立は主張していない。高度な自治と固有の言語文化、宗教的自由を要求しているだけである。
古くから伝わる排他的な中華思想を持つ中国人の愛国心が、寛容の精神を持って、多様な宗教文化と少数民族との共存に成功すれば、北京五輪は後世人類史における大きな平和革命をもたらしたという評価を得るだろう。天理教教理からいえば、五輪聖火リレー妨害という国家的大節は、あらたな芽を吹く絶好の機会として、逆に天から中国「高山」為政者に与えられているということになろう。
しかし、何世紀にもわたって染み付いた中華思想は、いまや強烈な偏向的愛国心に変態しているから、その愛国心を世界平和に向けて脱皮させるのは、毛沢東時代の文化大革命にも相当する大混乱の道を歩む覚悟がいるであろう。偏狭な愛国主義や宗教原理主義は、排外主義や「蛸壺」主義に転化する。グローバル化時代における巨大化する蛸壺的中華思想は、北京オリンピックのスローガンである「ひとつの世界、ひとつの夢」とはまったく矛盾している。このことはその規模に関係なく、いかなる世界伝道宗教にも通底する真実であろう。
そもそもオリンピズムは、「近代オリンピック競技大会を含めて、すべてのオリンピックそのものを動かすイデオロギーである」(J.シーグレイブ)と主張されている。つまり、オリンピズムはオリンピック競技のイデオロギー的な拠りどころをもっているという点で、サッカーのワールドカップやテニスのウインブルドンなどの国際大会とは違う。シーグレイブ教授によれば、これらの国際競技大会はどれ一つとして象徴的な意味はなく、儀式やレトリックにおいても道徳性が欠落している点がみられると述べる。たとえば世界平和運動を目指した人権問題とか、国際的文化交流、青少年の心身育成、地球環境改善などといったビジョンを持っていない。
しかし、過去40年間、神聖化された近代オリンピズムは、利益中心主義、国家中心主義に毒されていて、クーベルタンの高尚な平和運動を目的とするオリンピック理念とは程遠くなってきている。その象徴的極め付けが、今回の聖火リレーへの妨害活動とそれに対する武力制圧であった。国境なき記者団の代表であるロベール・べナールは「五輪自体のボイコットを訴えているのではない。(われわれが主張するのは)人権無視の北京での政治指導者らを満足させるためだけのスペクタクル(見せ物)である開会式のボイコットだ。日本の首相にも開会式の3時間半だけ空席にしてもらいたいだけだ」と述べている。
数10万人に及ぶ当局が強制的に駆り出した「市民」が沿道を埋めて、聖火リレーを大歓迎したといわれる平壌の異常さは、1936年のベルリン五輪で、初めてヒットラーが演出した聖火リレーの後につづくさまざまな歴史的悲劇を暗示しているかのようだ。
イラク、アフガニスタン、アフリカなど、国際的紛争をとりまく現代の諸問題は、北京五輪問題と連動して、世界はますます混沌とした原初の「泥海」状態に回帰しているようだ。「元の理」の逆進化の様態が、世界の鏡にいま照らし出されているという認識が大切である。あらたな世界創造にむけての個性ある「道具」衆の発見と人材養成が急所となる。
と書いた直後に、未曾有の中国・四川大地震が発生、聖火紛争の火種は加速巨大化した。
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by inoueakio | 2008-01-01 10:59 | 巻頭言集