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2005巻頭言1月~6月号
2005年1月
「理想の死に方」と『シジフォスの神話』

『文藝春秋』は2005年の新年特別号で「理想の死に方」を特集した。三笠宮をはじめ各界58名が理想とした自分の望む死に方について長短の文章を書いている。それは無題として「生も死も運命と心得ております」という三笠宮崇仁の簡潔な一行にはじまり、同じく無題として「もちろん、情死」という作家・渡辺淳一の6文字のことばに終わっている。
ダライ・ラマ14世は、死とは変化の時の到来を告げるのみであり「古い着物を投げ捨て、新しい着物を身にまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である」と言い、したがって「精神的な修養を積んだ者なら、死が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて喜びに満たされるものなのだ」と述べる。そして、修行も積まずに、死を恐れ、なおかつ再生、転生を信じない一個人には、死が迫ったら、酒でも飲んで残された時間をたのしむのがよい、やがて死の恐怖も人生とともに終わるのだからと突き放している。
天理教者の理想の死に方を考えるとき、その根底にあるのは、生の目的が陽気ぐらしであり、その目的を達成する道具としてのかしもの・かりものである肉体を、貸主である親神に返すのが出直しであるという信念である。はたしてこの出直しに際して、至らぬ己の生きざまを親神に深くさんげし、また生かされたことに感謝するにしても、それがなおかつ出直しが近づけば近づくほど、人間は約束された新たな再生を信じて、精神は喜びに満たされるべきであるという時点にまでは説かれたことがないように思われる。出直しの教理はそこまでも私たちを運ぶか。
免疫学者として国際的に著名な多田富雄東京大学名誉教授は、脳梗塞で死地をさまよったあと生き返えったが、重度の右半身麻痺と言語障害、そして筆舌に尽くせない嚥下障害の後遺症をもつ身となった。そして連日毎食後やってくる咳と痰の苦痛と戦っている。苦しくても叫ぶことも出来ないというから、日常が苦しみの連続である。果てのないリハビリの訓練を、まるでシジフォスのようだと多田は告白している。
ギリシャ神話に登場するシジフォスは、度重なる神々への不敬のために地獄に落とされる。地獄では大きな一個の岩が用意されていて、彼はその岩を山頂まで転がして運び上げる刑罰を課される。山の頂上に達すると、岩はそれ自身の重さではるか麓へ落下していく。シジフォスは落下する岩を追って、麓へと下降して行き、再びそれを持ち上げ、登頂目的不在の頂点を目指す。永遠にこの往復作業が繰り返される。人生がこのような無意味な繰り返しであるとするならば、果たして生きるに値するかというのが『シジフォスの神話』を書いたノーベル賞作家アルベール・カミュの哲学的命題であった。カミュは、当時の労働者がシジフォスと同じように単調な仕事に苦しめられている姿に触発されてこの作品を著した。
考える力だけは残されているとして、左手だけで、一日に5〜6時間はキーボードで闘争するという多田富雄は、さしずめ現代の日本のシジフォスであろう。「私は物理的には歩けないが、気持ちは歩き続けている‥‥そして明日死んでもいいと思っている」と結んでいる。多田の理想の死のあり方は、そのタイトルにあるように「歩き続けて果てに息む」というところにあった。「頂上にむかう闘争そのものが人間の心を充分満たすのだ」と言うカミュの言葉が重なる。そこに一筋の道を見る。
先端医療科学技術のめまぐるしい開発によって、人間は昔のように簡単に死ねなくなった。どうやらシジフォスの神話が現代に復活し、その威力を加速し始めたようだ。

2005年2月
自然災害の「偶然性」と「予測性」

2004年12月26日の月次祭祭典のさなか、インドネシアのスマトラ島沖でM9の地震が発生、巨大津波がインド洋沿岸諸国を襲い、村落や市街地を飲み込んで20万人以上の死者を出した。連日マスメディアは、史上最悪の被害状況をつぶさに伝えている。
2001年1月26日の祭典中にはインド西部の大地震(M7.9)が起こっている。世界たすけを祈願して行われる祭典のまっただ中で、未曾有の天災が続いて起こるというめったにない「偶然」の中に、神の意志を汲み取ろうとするのは信者として自然な心理であろう。とりわけ「おふでさき」(6-91, 116, 8-58)にある、地震や大風、そして津波や山ぐえ(山崩れ)といった自然災害は、月日親神の残念立腹の現れであり、とくに社会の高山に立つ人たちへの「かえし」、警告であるという意味の教えがよく知られているからである。しかし、おびや許しを教祖から最初に戴いた三女おはるは、1854年6月、産屋の壁が落ちかかるほどの大地震のさなか安産している。地震は年末まで揺れ続き、翌年10月には江戸大地震(M6.9)が起こっている。このころ教祖は残った3町あまりの田地を年切り質に出された。この谷底へ落ち切れたひながたの道は、上記の「おふでさき」に繋がっている。
政府の地震調査研究推進本部は、日本列島における地震発生率が最も高いとみられる「要注意の活断層」に、天理市を東西に走る奈良盆地断層帯をあげている。2005年は、1703年の元禄地震(M8.2)と1854年の安政大地震(M8.4)から数えて、大地震サイクル期に近い1世紀半の節目にあたる。加えて巨大地震は同時に或いは連動して起こるといわれる。この巨大地震「予測」に、宗教は何を深く語り得るか。
天理教では、世界は鏡、人は鏡と教えられる。しかし、一方で「澄んだ心が鏡」とも教えられるから、心が濁っていては鏡たり得ないという厳しさがこの教えにはある。つまり、心が澄んでいなければ、世界の真実や神の心、そして何を為すべきかは、心の鏡に映らないので、災害からなにも学ぶ事は出来ないのである。ここにも自然災害が神の残念立腹の現れであるという信仰的意味の解釈を疎外する原因がある。
私は以前から必然ではなく、「偶然」が新たな感動と行為を導き出し、その地平から神の姿である不思議が現れて来るということを信じてきた。津波は地震が原因であるから、それは物理的には「偶然」ではない。地震も海底のプレートの移動が原因である。無数に近い系列をもつ諸原因の過去的連鎖を辿ることは無意味であるとしても、自然現象の因果関係の中に人間が介入して来ると、そのとたんにややこしい「偶然性」という問題が発生する。古来より著名な哲学者や思想家が格闘し、結局はみなもてあましている問題が、この人間と人間、自然と人間に介在する「偶然性」と運命の問題であった。ボードリヤールは神に「『偶然』は私をくたくたにする」と言わしめているほどである。ショウペンハウワー、ニーチェ、ドストエフスキー、ヤスパース、ハイデッガー、九鬼周造ら、近代理性主義の克服をめざす思想家が迫った「偶然性と運命」の問題を、哲学者木田元は30年を費やして、挫折を繰り返しながらようやく1冊の岩波新書に整理したが、依然問題は霧の中であると告白している。しかし、それは災害の持つ「偶然性」に対して、無関心、無行動であってよいと言っているのではない。

2005年3月
極楽浄土と「二河白道」

未曾有のスマトラ沖大地震が起こした高さ数10メートルの巨大津波が町を飲み込む様相をテレビニュースで何回も見せられた。突如「二河白道」という譬え話しがよみがえった。津波が火災を呼ぶことは過去の記録によく知られている。1993年の奥尻島の津波では192棟の家屋が焼失しているし、カナダでは津波が原因で石油タンクが爆発し一町村が火災で全滅している。また沖を行く石油タンカーが津波で沈没し、流れ出る原油に火がついて火の海が沖を襲ったという事故もあった。「二河白道」とは、天理教教祖が19歳のときに受けられた浄土宗の「五重相伝」の四重において講義される、荒れ狂う「火」と「水」の河に挟まれた極楽浄土へ至る細道のことを指している。
白道とは西方浄土への往生を願う信者が入信から往生に至る経路をあらわしている。白道の白は清浄の信心をあらわし、細道とは4、5寸、ほぼ人間の足底の幅である。つまり極楽への道は厳しく両足で立てないほどに狭いのである。それだけではない。荒れ狂う二河は深くて底知れず、背後からは群賊悪獣が迫ってくるので前へも後ろへも進めない。立ち止まっていては死を免れない。そのとき東からこの道を行け、必ず死の災難は無いという声が聞こえる。西からは一心正念にして来れ、吾はお前を護ろうという声が聞こえる。その声を信じて敢然と前進し続けると極楽浄土に至るという話である。まだ見える火の中もあり淵中もとか、それを越したら細い道ありとおふでさきに記された有名な譬え話は、当時の人たちにはよく知られていた「二河白道」を裏守護と見立てた表現であると思われる。もちろん天理教ではあの世における極楽や地獄といったものは否定される。あるとすればあの世にあるのではなくてこの現世にあり、さらには信心の細道を歩む人間の心の中にあると教えられる。しかし信心の絶対的状況における前進への決断の不可避性においては両者は共通している。
火の河は激しく燃え上がる衆生の瞋恚、水の河は底深くどよむ貪愛を象徴している。
火の河や水の河は、いずれもおふでさきの「火の中」「淵中」に対応している。また二河の瞋恚と貪愛は八つのほこりで説かれる「はらだち」と「よく」に対応する。山坂や茨ぐろうや崖道は東の娑婆の世界、西は浄土につながる「ほんみち」に対応している。みかぐら歌の「ここまでついてこい」とは「細道」を渡って大道である本道に来いという意味で、行く方向は極楽浄土ではない。悪魔や天使も不在である。悪霊といったものも教えの中では一切説かれていない。天理教にあってはあの世は完全に否定されているのである。また、細道を渡り往還道に出たとしても、「細道は通りよい、往還は通り難い」と逆説的である。極楽浄土を目指すという発想より、「今」としての現在の心のありかたを重視するという教えである。このことを「今がこのよのはじまり」という言葉で説かれている。つまり、道を歩む心のプロセスに信仰の重心が置かれているのだ。したがって、あくまで心が「澄み切りましたがありがたい」と歌われているのであって、ありがたいのは極楽へ行けるからではない。
浄土宗でも最近では西方極楽浄土論は否定される傾向にあるようである。そもそも白隠は「往生は禅の見性と同じ」と述べているし、浄土宗増上寺の開山・酉誉上人も「往生トハ諸宗ノ悟道ノ異名ナリ」と言っている。つまり浄土とは、回心の瞬間、真理に触れた時の感動の瞬間をさす「心のありようのこと」ということになっているらしい(『宗教の教科書12週』菅原伸郎著、トランスビュー、2005)。面白いかな。

2005年4月
創設者記念館開設の意義─蘇った「若江の家」

2005年4月23日は天理大学創設者中山正善先生(1905〜1967)の生誕百年の日である。この日に天理大学創立80周年の式典が行われ、記念事業として創設者記念館が開館される。この建物は大正14年の春、創設者の天理教「管長公勉強室」として大阪若江の里に竣工した洋館である。創設者は東京帝国大学入学までの2年間、この建物から大阪高等学校に通学した。昭和30年創立30周年を記念して、この洋館は天理大学構内に移築され「若江の家」と呼ばれてきた。
「若江の家」はその後、半世紀に亘り、会議室や事務室、そして留学生宿舎などに使用され、その後空き家になっていたが、1年間の保存修理を経てこのたび創設者の生誕百年を記念し創設者記念館として活用されることとなった。この洋館の中で、天理外国語学校創設のビジョンが熱く語られ、天理大学の前身が誕生したのであるから、「若江の家」は「建学の精神」を宿した母胎としての意義をもつ。ひんやりとしたこの建物のなかに入り、独自の内装や洋風の暖炉、会議のための獅子のデザインを施した12人はゆうに座れるオーバル型のテーブルや椅子、そしてステンドグラスなどを見ると当時の時代の空気が漂ってくる。
洋館の歴史は開国が大きなきっかけとなっている。幕末の横浜、神戸、長崎、など開港五都市といわれる外国人の居留地には、コロニアルな洋館が次々と建築された。有名な長崎のグラバー邸は1863(文久3)年に建てられた現存する最古の洋館である。近代化を進める明治政府は、文明開化の終末期である明治10年代になると、擬洋風な建築には納得せず、海外から鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築家などを招き巨大建築を手がけた。その教え子にはのちに東京駅などを建てる辰野金吾、赤坂離宮などを建てる片山東熊などがいたが、明治20年代になるとこれら日本人建築家たちによる、石とレンガの重厚な本格洋風建築が建てられるようになる。
大正末期に竣工した「管長公勉強室」は、洋館といえどもコロニアルでも奇抜な擬洋風でもない。また国家が組織的に導入した石造り、煉瓦造りの系統でもない。1階には和室2部屋と洋室2部屋があり、2階には同じ配置で洋室2部屋と1部屋の和室、そして洋風の勉強室が1部屋つくられている。文明開化とは欧米化を意味するが、洋館的外観を持つ「若江の家」の内部構造は、洋風と和風が見事に調和されたものとなっている。天理外国語学校発足時に教えられた外国語が近くから遠きに及ぼすというところに重点が置かれ、夫婦で海外伝道をという思いから男女共学になったことも、この建築内部構造が思想・文化的に和洋の調和を醸し出していることと無縁ではないと思われる。和か洋かの二者択一的選択ではなく、まさにグローカルな直観に建物の構造自体が貫かれている。その理念は和洋の包摂を目指す異文化伝道にもつながるものであろう。
改修復を経た記念館は、創設者の軌跡を辿る個人史と、創設者が生み育てた天理図書館、天理参考館の意義、そして創設者自らがスポーツマンであり、また国際的に知られたスポーツ振興者であった史実を語る天理スポーツ略史紹介の4展示室から成っている。いずれも創設者が生涯かけて開拓・貢献した文化・学術的領域における国際的偉業の蓄積を収斂・展示したものである。創設者記念館として再生した「若江の家」は、宗教私学が独自に持つ建学の精神のシンボルであるばかりではなく、その実践を問われる場所として、あらたな歴史的使命をもって蘇った。活用に携わる関係者の未来への責任はまことに重大であるといわねばならない。

2005年5月
天理教建築史に見る洋館と近代和風建築

天理教における建築は、親神の人間創造の目的である「陽気ぐらし」世界実現を目指すものであるから、その目的は人間救済にある。建築の規模やデザイン、そしてその機能や耐久性も相対的に重要視されるが、まずその建築に参画する人たちが、それぞれの立場を通して親神の思し召しに添う心をつくりあげていくことが信仰上最も大切とされる。このことを指して「心のふしん」に掛かると教えられる。天理教の重要な教語には、真柱、荒木棟梁、用木など建築関係の言葉が数多く見られる。あえて「心の建築」ではなく「心の普請」といわれるのは、形の普請を行う通常の建築に対応して、建設に参加する信仰者の側の「心のふしん」に建築の信仰的焦点が置かれているからにほかならない。
天理教における普請史は、嘉永6年の中山家の伝統的母屋のとりこぼちに始まる。そのとき教祖は「これから世界のふしんに掛かる。祝うて下され」と申され、その11年後の元治元年(1864)勤め場所の普請がついに開始された。「心のふしん」にも象徴としての母屋のとりこぼちが条件となるが、一方ふしんを完成するためには目指すあらたな心のデザインが要請される。とりこぼたれるべき母屋の象徴的解釈は信仰者個々人の悟りにゆだねられているが、母屋のとりこぼちは、単なるあらたな建築のための破壊を意味しない。とりこぼたれた母屋の残材は別の場所に運ばれて再生利用されている。この史実が暗示する真実については、あまり語られたことがない。残材利用は資源のリサイクルであるが、見えない心のリサイクルとはなにか。大切なことはふしんに際して伝統的なものの中から何を残し、何を捨て去るのかを正しく判断する鋭いバランス感覚であると思われる。
天理教の建築史は、日本における近代宗教建築史の中でもきわだっている。礼拝の目標であるぢば甘露台を八丁四面に囲むおやさとやかたは、建築空間の概念を教理的に規定し、近代和風建築の粋として世界に類例を見ない独自の宗教的空間形式を生み出した。日本の近代建築は、西洋化の中でその建築が位置づけられ、その特徴を捉えることから始められることが多いと言われてきたにもかかわらず、現実には洋風建築よりも和風建築が圧倒的に多く建てられて来た。近代和風建築の調査を進めてきた村松貞次郎は「これは日本近代建築史の大きな空白である。というよりは日本の近代建築史が、まったくその反面を欠いている」と指摘している(「近代和風の歴史」『新建築』新建築社)。
天理教における洋館は大正13年竣工の「若江の家」を嚆矢とする。外観は洋館であるが煉瓦造りではなく素材は木造・モルタルである。その内部は和室と洋室がほぼ均等となっている。和式と洋式の調和の中に伝統と革新の共存思想が見られる。同様の発想が後に東京帝国大学総長を勤めた内田祥三の設計であるコンクリート造りの現天理高校の校舎建築にも活かされたのではないか。内田は昭和普請や、おやさとやかたの建築顧問としても創設者・中山正善2代真柱の相談役となった。昭和12年に竣工した天理高校の校舎は入母屋屋根の平側に三つの美しい千鳥破風を並べている。この様式が戦後おやさとやかたのモデルとして採用された天理建築の屋根のシンボルとなった。「若江の家」に続いて、天理外国語学校、図書館、印刷所といった洋館群と昭和普請の木造建築が次々と天理に現れたが、それらはすべて創設者がたどり着いた、独特の近代和風建築様式を持つ「おやさとやかた」として、世界の歴史的宗教建造物に昇華していったのである。

2005年6月
ツタンカーメン王と薬師如来

我が国最初の建築史家として知られる伊東忠太は、法隆寺を遥か西域のギリシャにつながる系譜のなかに位置づけた。法隆寺の柱に見られるエンタシス(胴張り)が、ギリシャの神殿の柱の影響を受けているという「発見」は、シルクロードのロマンを増幅させずにおかなかった。明日香村の高松塚古墳の壁画を彩る濃紺色の顔料に、アフガニスタン産のラピスラズリが使われていたという最近の新聞報道にも感動させられた。アフガニスタン産のラピスラズリはエジプトのツタンカーメン王墳墓発掘の際にも数多くその棺の中から発見されていたからでもある。つまり、日本とエジプトの両国は、アフガニスタンを発信地として、ラピスラズリという不思議な石で結ばれていたということになる。
ラピスラズリはダイヤモンドのような透明性の高い「宝石」というより、濃紺紫色で専門的には「貴石」の範疇に分類される。金の筋が表面に浮いて見えるので「青金石」ともよばれ、金、銀、珊瑚などとともに「七宝」の一つにも数えられ、日本語では「瑠璃」と訳されている。古代ローマの博物学者プリニウスは、ラピスラズリを「星の煌めく天空の破片」とその神秘性を表現したという。ラピスはラテン語で石を意味し、ラズリはペルシャ語で青や空を語源として持つ。中近東のイスラム教国では、モスクのモザイクの壁などにも多用され、法華経や阿弥陀経にも登場する。正倉院御物の円鏡の背面にはこの石が象嵌されているし、空海もラピスラズリを守護石としていたらしい。またモーゼの十戒が刻まれたサファイアの板は実はラピスラズリであったとか。 
このアフガニスタン産のラピスラズリは、紀元前3000年頃のエジプトの墳墓から数多く発見されたのでも有名である。つまりこのことは5000年前頃からラピスラズリを採掘し運搬する人たちがアフガニスタンに居住し、採掘地とエジプトを結ぶ内陸ルート「瑠璃の道」が存在していたということになる。「絹の道」より3000年も古い。1922年王家の谷でイギリス人の考古学者ハワード・カーターによって発掘された、あの黄金のマスクで有名なツタンカーメン(1347〜1338BC)の棺には、太陽と再生のシンボルであるアフガニスタン産のラピスラズリに掘られた昆虫スカラベが数多く発見された。黄金のマスクの頭部にあるオシリス神の鷹の頭を持つ息子ホルスの眼球もラピスラズリに掘られている。エジプトではラピスラズリを天空と冥界の神オシリスの石とする文化が誕生していたのである。
興味がそそられるのは、ツタンカーメンと薬師如来の眼球にラピスラズリが使われているという点である。薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来と呼ばれる。仏教僧もこの瑠璃を見つめ精神の集中を図り、粉末を薬や顔料としても用いていた。それだけではない。薬師の文字が示すように一般民衆は病苦から逃れる現世の利益を求めて、この如来を医薬の効験を示す仏として広く信奉してきたのである。渡辺光一はその著『アフガニスタン─戦乱の現代史』(2003)を、アフガンに生まれたラピスラズリが薬師如来に深くつながり、日本人は様々な形で救済を受けてきた。その有形無形の「仏の慈悲」を、今こそアフガンの大地とそこに暮らす人々にお返しすることが「人の道」であろうと結んでいる。ちなみに天理教では、方位は同じく東、身の内では飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護を司るくもよみの命の裏守護が、薬師瑠璃光如来の働きに対応するとも伝えられる。
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by inoueakio | 2005-01-01 09:30 | 巻頭言集