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2004巻頭言1月~6月号
2004年1月
イラク自衛隊派遣の教理的是非

フセイン元大統領がイラク北部のティクリートで、みすぼらしい農家の庭の地下穴蔵に隠れていたところを、米兵に拘束されたというニュースが12月15日の夕刊全紙の一面で大きく報じられた。
テレビで目線が引き付けられたのは、米兵が合成繊維のような袋をめくりあげ、その下に隠された発泡スチロール製の軽いはめ込みをはずして、フセインが穴底に隠れているのを発見したという再現シーンである。『ヘラルドトリビューン』紙の12月17日の一面トップ記事「ふさ糸がサダムを裏切る」(A Fiber Betrays Saddam)によれば、地下壕発見の直接のきっかけは、泥の中から突き出ていた袋のひも状の房の一片だったらしい。兵士がそのひもをいぶかしく思いぐいと引っ張りあげたその動作は、一時代の終わりと転換期を呼び込む「扉が開かれた」ようにも思えた。土嚢袋に泥を詰め、それをアースバッグと称して600個ほどドーム状に積み上げて、難民用シェルターにしようと、天理やインドで学生達と張り切っている者とっては、大物フセイン発見の映像はまことに特異な感動をもたらした。土嚢の房のひもがもし土中からはみ出していなかったならば、そしてもしそれに米兵が気づかなかったならば、イラクの歴史、日本の歴史、さらには人類の歴史も変わっていたかも知れなかったからである! あの場所での一枚の土嚢袋には不思議な存在感があった。
戦争と言えば、天理教教史においては教祖年祭と合図立て合っている。120年祭は2年後(2006年)に迎えるのであるが、全世界はいま先の見えないアフガンやイラク情勢をめぐってゆれに揺れている。わが国でも自衛隊のイラク派遣の是非で国論は二極化され、識者がそれぞれの専門分野から議論をいくら繰り返しても、テロの恐怖は厳然としてある。フセイン拘束によって米国は事態好転を期待している様子だが、現実は逆に反米テロは拡散・加速状態となり、ゲリラ戦化しつつある。
日清戦争が勃発したのは、教祖10年祭(1894年)の2年前であり、10年祭前年に日清講和条約がなった。一方日露戦争は20年祭(1904年)の同じく2年前であった。日露戦争も年祭前年に講和がなった。第2次世界大戦終戦の年は、60年祭の前年にあたり、「復元」が打ち出された。教史が繰り返されるのなら、イラクの安定が見えてくるのは、2年後の120年祭頃ということになる。国際関係権威筋の見方も事態の推移からおおよそその頃に標準をあてているように見える。
「日清間事件に付朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願」(さ27/7/26)に始まる一連の伺いのおさしづがある。応募者は2700名を超えたこの願いに対して、「事情はふでさきに寫してある」に始まり、親神の返答は派遣は「要らざる事や」と否定的である。人夫とはいまで言えば武器を持たない後方支援のボランティア労働者というようなものであろうか。いささかの収入もあったらしくて、「さあ人夫出すと言う。日々の与えを取って出るは、今までの事情、世界事情、精神誠の理を以て、たとい火の中剣の中とも言う。与えを取って出るは、道に触れると言う。」と諭される。結局は、陸軍大臣に出願した義勇人夫は当局からも採用されず「大変な事件であるが、ようまあという日が、今に見えるであろう。」と希望をも与えられ一連の関連したおさしづは終っている。
「おふでさき」にある「謀反の根を早く切りたい」、「高山の戦いさいか治めたるなら」といった親神の思いに到ると、如何にその憲法解釈が平和のための派遣の大義に添ったものであっても「律ありても心定めが第一」と教えられる視点に立つならば、自衛隊派遣には一天理教者として賛成できない。
小泉首相は戦争放棄という憲法第9条の「律」の枠を、彼の政治倫理観にもとづく「心定め」で超えてしまったという皮肉な逆説が、反面鏡となって天理教者にもいまその是非の決断を迫っているようにも悟れる。(2003年12月18日記)


2004年2月
「人間の顔」の誕生と「元の理」

この世の元始まりは泥の海
その中よりも泥鰌ばかりや
その内に魚と巳とが混り居る
よく見澄ませば人間の顔
それを見て思いついたは真実の
月日の心ばかりなるそや
この者に道具を寄せてたんと
守護教ゑた事であるなら(ふ6:33〜36)
人間創造の親神の思いは、見澄まされた「人間の顔」に始まっている。したがって、「人間の顔」の意味が親神によって認知されなかったならば、人間の創造はなかったと考えられる。親神によってよく見澄まされた「人間の顔」は、子どもの顔であったか、おとなの顔であったか。黒人であったか、白人であったか、黄色人種であったか。陽気な顔であったか、深刻な顔であったか、素直な顔であったか。
「元の理」の原本となる各種こふき本には、「人間の顔」という言葉が「おふでさき」と同じ文脈の中で見られる。ところが説話體十四年本(喜多本)では「人間の面」と記されている。後者は「かぐら面」を連想させる表現との印象を受ける。面はマスクであるからそれ自体は不変であるが、かぶる人のしぐさや身ぶりによって伝達される意味が異なって見える。能面などはその典型であろう。甘露台づとめの人衆10人はそれぞれ「面」を着用し、十全の神の守護を代行身ぶりをもって表現する。手ぶりが重要視されるのは当然である。
一方「おさしづ」においては、「顔」ということばは30数回も見られるが、その中に次のような注目すべき一節が見られる。
「さあ尋ねる処、顔の理と心の芯の理と、これ二つ区域からなる。放って置けんというは顔の理、芯に理あれど顔に理無い。これ心に持ってから治まり難くい。これ眞に聞き分けにゃならん。」(さ34/11/24)ここでは「顔の理」と「心の理」があたかも対応するかのように述べられながら、その間に生ずる上級と部内の教会事情の治め方が「顔の理」という比喩をもって語られている。
人類進化の過程で「人間の顔」は大きな変貌を遂げた。解剖学用語では「顔」は「内臓頭蓋」とよばれ、一つの「臓器単位」として扱われている。それは「顔」の筋肉が、進化の過程における魚類の鰓腸の「呼吸内臓系」に存在していた「内臓筋」に由来しているからだといわれる。したがって古来から、顔面に現れる顔色や表情は内科診断では特に重要視されてきた。内臓筋の色調や様子はそのまま「人間の顔」に最も良く現れるからである。「人間の顔」は咀嚼、表情、嚥下、発声の4つの複雑な、筋群からなっているが、それらは人間の心遣いや感情の動きと対応し、「人間の顏」は精神神経活動を表現する器官として個体の独自性を自ら示すものとなった。
「元の理」にも関心をもつ著名な生命生態学者三木成夫によれば、胎児の世界をヘッケルの進化の系統樹にそって、人間から逆に順を追って太古に遡って行けば、「人間の顔」の原形が見られるという(対談「生命記憶と元の理」『胎児の生命記憶 ネオテニー』ドルメン2)。ムカシホヤの海中をゆらゆら泳ぐ動きが「頭進」をもたらし、「鰓腸」が成立した。「鰓腸」とは「鰓穴をもつ腸管」のことであるから、「顔の誕生」は「鰓穴を腸管に取り入れた」ことによって始まったというわけである。したがって、顔の始まりは口であったということになる。視角の要である「眼」は光に対する生体反応によって発生し、脳が突出した器官である。「よく見澄ます」という視覚用語も「顔の誕生」と切り離しては考えられない。マイケル・ガーションの『セカンドブレイン−腸にも脳がある!』(小学館2000)もベストセラーになっている。イラクにおける「日本の顔」も喧しいが、「自分の顔」についても内面から「見澄ます」ことの大切さを、こふき本が語る「人間の顔」は暗示しているように思われる。

2004年3月
イラン地震被災地と「土の文化」の再建

2001年の1月26日インド西部で大地震が発生した。崩壊した村は約9000、死者は数十万人と言われた。おやさと研究所では、その年の7月、被災地へ自費参加を含めた10名の専門家を派遣し、地震被災地の現場を視察した。それが天理大学の地域文化研究センターの「国際参加」プロジェクトに継続された。現地のNGOと協働して学生たちは、貯水のためのチェックダムや被災者仮設のためのドーム型のアースバッグ・シェルターの建築をはじめ、石庭の造園や竹の植樹などにその活動を展開していった。チェックダム保水効果により、周辺の井戸は水を満たし、その結果、収穫された農作物の生産高は目立って増加し農民に喜ばれた。本年2004年の2月から3月にかけては、今回はドームではなく、木材と竹を利活用した屋根を持つ、高さ4m巾4m長さ6m余りの方形土嚢塀による図書室を建設する。積み上げる土嚢数は1300個余りになるだろう。
2003年の12月26日、イラン東南部のバム市でマグニチュード6.5の大地震が発生した。死者数は4万人以上と推測される。古代都市バムはシルクロードの中継地で、地下水にめぐまれたオアシスとして栄えた。今回の地震では、城塞遺跡もほぼ全壊している。砂漠地帯では都市や村も日干し煉瓦や泥土を素材として築かれてきた。しかし、ドーム状やボールト状の建造物の全壊は見られなかったという。インド西部の地震においても、土を素材としたドーム建築(ボンガ)の耐震構造は、他の鉄筋や木造などの建造物よりも強固であることが証明されている。私たちはそのモデルを現在も、学内や神戸、インドで構築しているのである。
この「土の文化」の古代建築技術から、独自の生態建築論(Arcology)という思想を創出したパウロ・ソレリというイタリア系の建築・デザイナーがいる。日干し煉瓦を自ら毎日延々と一個一個同志と積み上げて、それが巨大な建造群にいまや成長している。アリゾナにあるアルコサンティと呼ばれるこの都市の人口は、いまだ100名に満たないが、訪れる観光客は後を絶たない。彼は「エネルギーが均等性のどん底にねむるとき、時は止まる」(『生態建築論』)などと述べ、この都市は完成するのに600年位はかかるだろうと泰然自若としている。一方カリフォルニアのヘスペリア砂漠地帯では、土嚢によるスーパアドベと呼ばれるドーム建築を推進している建築家に、イラン出身のナーダ・カリーリがいる。天理大学の「国際参加」プロジェクトにおける泥土へのこだわりは、「元の理」の「泥海」が暗示するエコロジーに導かれて、この両天才に現場で筆者が出会った瞬間から始まっていたのかも知れない。
Independentというインターネット新聞(04 Jan. 2004)によれば、「有刺鉄線と泥土で町は再建できる」というタイトルでカリーリの土嚢による建築技術が紹介されている。「土の文化」がイランの特徴として歴史的に知られているのに、なぜ官僚は鉄骨を取り入れた現代建築でないと都市再建ができないというのか。伝統に則した正しい再建の答えは、泥土を素材とした彼のスーパアドベ建築技術を採用することにあるのであって「1000人の兵隊と100人の建築学専攻の学生を貸してくれば、バム市を再建してみせる」とカリーリは主張している。強固な耐震構造を持ち、安価で安全な土嚢先端技術は、デザインに工夫を加えればさらに景観的にも芸術的にも価値のあるものになる可能性を秘めている。
正しいことが採用されないのは、無知というより経済効果が伴わないという、いつもの企業や官僚・政治家の功利主義にあるからだろう。「国際参加」プロジェクトは、この功利的価値観にも挑戦しているのである。

2004年4月
  神より逃走する「人間の顔」

古代ローマの雄弁家として知られるキケロは「顔つきは精神の反映だ」と言った。また古代ギリシャではアリストテレスが人相学を信奉していて、「顔」に現れる人間の性格特性について非常な関心を示していた。額の狭い人は気まぐれだとか、丸みがあったり出張っている人は短気である。凝視する眼は厚かましさを、まばたきをする眼はためらいを物語っているなどと延々と分類し、さらにさまざまな動物との類似性を「人間の顔」に見い出して、かぎ鼻の人は鷹に似て残忍だとか、数多くの例を挙げている。ギリシャ人はその演劇に人相学の原理を取り入れて、俳優はその特徴を現すために特定の「面」をつけていた。
大昔から人相学という風習は現代にもつづいている。人相学の極端な社会的影響については、レズリー・A・ゼブロウィッツの著『顔を読む』(大修館書店)のなかで驚くべき事実が紹介されている。1772年に出版された人相学者ヨハン・カスパル・ラヴァターによる『人相学断章』という書物は、ドイツ、フランス、イギリス、オランダ等で初版以来100年にわたって増刷されつづけ、さらに著者の母国スイスでは1940年になっても2種類の現代版が出版された。さまざまな言語を加えると総計151の版が出版されたと報告されている。ダーウィンは艦長がラヴァターの人相学の影響を強く受けていたので、鼻の形のせいで、危うくビーグル号の航海をしそこねるところであったとか、大英百科事典第8巻には「顔から性格を判断する研究が流行しており、多くの地域で人々は顔をおおって通りを歩いている」などとある。
「顔学」については、我が国でもさまざまな本が最近出版されはじめているが、なんと言っても「顔」といえば、優れた精神科医であり、現代世界のなかに奇跡のように立ち現れた詩人賢者で、予言者でもあると名翻訳者佐野利勝に言わせしめた、1888年ドイツ生まれのマックス・ピカートによる『人間とその顔』(みすず書房、1959)を第一に挙げたい。本文はピカートの独創的な深い思索による詩的表現に満ちあふれていて、読者を新鮮な感動で揺り動かさずにはおかない。ピカートには『沈黙の世界』や『神よりの逃走』という名著もある。その中においても「人間の顔」にふれて「人間の顔は、沈黙と言葉とのあいだにある最後の境界である。つまり、顔は、そこから言葉が発生するところの壁なのだ」とか、「人間の顔」は、「それを創造した神の始源の像に信仰を通じて結びつけられている時にのみ、神の似姿として保たれ得るのだ。人間が神から離れるや否や、顔は像としての性格をすべて喪失する。顔は崩壊するのである」などといった独自のひらめきが導く分かりやすいメタファーが随所に見られる。ピカートの言う人間を表す「壁」としての「顔」は、筆者が教語として考えている「扉」という言葉にも置き換え得るだろう。
鼻、口、額、眼、頬といった諸部分を総括する「信仰の顔」は「一つの像」であるが、それに反して神より逃走する「顔」は、「単に外的にお互いの隣りに並べられている部分の総和」に過ぎないとピカートは説得させる。思わず「自分の顔」が神から逃走しつつあることを示す、単に部分が集合した「顔」としてしか映ってないか、部分が「一つの像」として総括された「信仰の顔」として映っているかを、いま「鏡」でその素顔を確かめて見よと、ピカートの文章は急かしているような気を起こさせる。

2004年5月
 切腹・人間魚雷・焼身自殺・自爆テロを考える

 切腹は、武士の自殺の方法として、平安時代に行われるようになった。『太平記』では68件の切腹に関する記述があり、その人数は2140名を超える。腹を十文字に切り、内臓をつかみ出して、相手に投げ付けるのは、武士の勇気と胆力を示すものとされた。切腹の歴史をひも解くと、それは単なる自殺やテロではないことが分かる。江戸時代になると切腹は作法をともなう荘厳な儀式ともなり、価値のある死に方と考えられるようになった。降伏した城主が切腹することによって、部下の命を救ったという事例は数多く見られる。切腹という行為には、それに附随する効果が期待されるようになったのである。切腹は武士に対する特権的な刑罰となり、明治3年の改定律令によって廃止されるまで存続した。しかし、その後も乃木希典大将の殉死や、2度にわたる世界大戦においても戦闘に敗れた指揮官が現地で切腹した例は多く見られる。三島由紀夫が自衛隊に決起を促す目的で行った割腹自決も、介錯を伴う切腹であった。介錯人森田青年によって斬首されたこの天才作家の頭部が、その胴体から切り離されてリアルに報道されていた新聞記事の写真は鮮烈であり、いまもありありと思い出すことができる。切腹には、理由は何であれ一種の「身代わり」的な強い意志と思想が籠められているように思われる。切腹は「ハラキリ」などと欧米人から呼ばれ、彼らにとっては日本人の理解し難い文化行動様式と見られている。イスラームの自爆テロも同様であろう。
「人間魚雷<回天>隊員の笑顔は報われたのか」(『正論』2004年5月号)という、伝記作家片岡紀明氏の感動的な寄稿文を読んだ。先の戦争の末期、人間魚雷「回天」に乗って敵艦隊に発進する20歳前後の特攻隊員たちの明るい「笑顔」の意味を読み解き、「この写真を見た瞬間、私は60年前の中学生になり、すぐ目の前に、年の離れた兄くらいの<回天>の人々が、こちらに笑いかけている、その風景があらわれた」と述べ、「私のすぐ身近に、彼らの鼓動や言葉が聞こえてきた」と続け、その聞こえてきた言葉を鋭い感性で再現している。「生をうけたその時代が求める最善の任務を与えられて本望である」とか、「己のためには汗を流し、人のためには涙を流せ」といった特攻隊員の言葉は胸を打つ。片岡は克明な聞き取り調査の結果、彼らの「笑顔」が報われたか報われなかったかは、残された私たちのいまの態度できまると断言し、なけなしの兵器で自己の命を犠牲にして私たちを救おうとした若者に対し、それを愚行、自殺、狂気、テロという言い方はないだろうと締めくくっている。止まるところを知らないイスラームの自爆テロにしても、単なる自殺や報復を超えた死生観が存在しているに違いない。
仏教僧侶はベトナム内戦ではおおむね中立的立場をとっていたが、抗議する方法として焼身自殺という道を選んだ。危険を犯してイラクへ人道支援におもむいた日本人3人の人質事件と、テロに屈しないという政府の自衛隊撤退拒否表明が喧しい中、「無理に止めるやないほどに 心あるなら誰なりと」「胸先へきびしくつかえ来たるなら 月日の心急き込みである」という神言がいま脳裏を去来する。「あらきとうりよう」とは一体何を意味しているのかと考える戦争の時代が再来しているのである。歴史の過ちを繰り返してはならないが、律を超える真実とは何かという問題は、時代をも超えている。この現代に突き付けられたグローバルな宗教的命題から、ローカルな場に住む信仰者たちが目をそむけ、逃避することは許されないであろう。

2004年6月
偶像崇拝と教祖存命の理

偶像という漢語は本来は人形を意味している。その像が崇拝の対象となった場合は神像とか仏像などというが、とくに偶像という場合、それは「真のものではない別の姿ないし中間に介在するもの」という意味合いを含んでいるとされる(『世界宗教大事典』平凡社、1999年)。
ルネッサンス期にG.ブルーノが哲学用語として「本当のものを見えなくさせる先入見」の意味で、姿とか像を意味するラテン語のイドラという言葉を用い、それが偶像と和訳された。のちF.ベーコンが「人間の知性をとりこにしている偶像」を、種族の偶像、洞窟の偶像、市場の偶像、劇場の偶像と分析したのは有名な学説として知られる。
イスラム教は、アッラーという唯一の人格神を信奉しているが、神の具象化を禁じ、モスクには神像も図像もなく、キブラ(メッカの方向)を示すミフラーブ(壁龕)があるだけである。ユダヤ教でも視覚的な偶像の崇拝は、比較的早い時代から禁じられていた。宗教革命時代には、神像をめぐって大きな議論が巻き起こり、結果としてカソリックは条件付きでそれを認める立場をとった。しかし、歴史的には世界宗教はこぞって他宗教を批判、制圧、攻撃する時に偶像破壊を行い、現在もそれが続いている。近くはタリバーンのバーミヤン仏像の爆破は好例で、それはイスラム原理主義者の仏教があがめる偶像の破壊行為として一般に理解されている。本来この事件の背景にはきわめて巧妙な政治的もくろみがあったが、それについては次の機会に述べる。また洛陽に近い龍門の磨崖仏は、則天武后の顔をモデルにした巨大な廬舎那仏である。日本にも中世において盛んに描かれた来迎図の中には、自分自身の姿を描き込む実例は数多く見られた。そのなかに自存在を投影し浄土への往生を祈るのであろう。
蓮如は木像よりは絵像、絵像よりは文字、つまり名号がもっとも仏をよく表現するものとした。しかし、阿弥陀如来があの世から迎えに来る浄土往生の様子を、言葉だけで唱えイメージするのは、どうもたよりないと感じたのだろうか、来迎図の流行は聴覚で念仏を確認し、視覚を通してその観想が救済力を倍加すると感じたことが想像される。
ところで天理教の場合はどうか。管見によれば、世界宗教数ある中で天理教ほど偶像崇拝に関心を示さない信心はない。それはその教義の根幹に「教祖存命の理」という決定的な独自の原則があるからであり、偶像はその真実を疎外すると見るからである。教祖中山みきが現身を隠された後の「おさしづ」にも「影は見えぬけど、働きの理が見えてある。(中略)日々働いてい居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く」(明治40年5月17日)と教えられる。
信者は勇んで人をたすけようとする行為と祈りを通して、教祖と心の内面で面談する。したがって、単なる瞑想や祈りの対象としての可視的教祖像や画像は礼拝の対象には成り得ない。礼拝の方向は人間が宿し込まれた「ぢば」という一点に収斂される。その証拠として甘露台が神殿の中心に据えられ、それを囲んで救済のつとめが行われるのである。教祖殿においては姿が見えない教祖と信者はあくまでも内面的に対話・面談するのである。そのあかしとして教祖の不思議な働きに出会う。これが神の姿と教えられる。自分がたすかりたいという願いや祈りは、存命の教祖との出会いを可能にしない。偶像礼拝が行われないのは、この独自の天理教の救済観にある。したがって、最近某週刊誌(04/4/29)が記事にした「180万信徒が知らない天理教の“秘宝”....」と吹聴する教祖の肖像画や彫刻などには全くといってよいほど関心がない。その証拠のひとつに、半世紀以上の歴史を持つ天理教絵画展において、教祖の肖像を描いた作品などが出品された例は一切見当たらない。
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by inoueakio | 2004-01-01 15:18 | 巻頭言集