「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 1号
「二つ一つ」の原理─グローカリズムの視点 グローバリズムとローカリズムを橋渡しした概念をグローカリズムと呼ぶことにしよう。前者を地球主義、後者を地域主義とすれば、グローカリズムは地域と地球の二つを一つにした地域地球主義ということになろうか。従って、本誌の名称である「Glocal Tenri」とは、地域地球主義に立つ「二つ一つ」の天理ということになる。 『グローバリゼーション』(東京大学出版会)の著者であるローランド・ロバートソンは、「社会理論、文化相対主義、グローバリティーの問題」という論考の始めに、グローバリズムの大御所で、世界システムの提唱者E・ウォーラスティンの次のような言葉を引用している。 「現代社会におけるさまざまなナショナリズムは、かつての勝ち誇った諸文明と同じではない。それらは、普遍なるものへの同化…と同時に個別なものへの固執…に向けて、その欲求を多元的に表現したものである。つまり、ナショナリズムは個別主義を通しての普遍主義への欲求であり、普遍主義を通しての個別主義である。」(訳筆者) 本誌でいうグローカリズムとは、個別と普遍を対立概念として捉えるのではなく、両者を統合する立場に立つ。つまり、グローカリズムは、ウォーラスティンのいう現代におけるナショナリズムのように、普遍主義を通して個別なるものを求め、また個別から普遍なるものへの同化を求めるのではなく、個別と普遍を結びつける方途を模索する。こういった考え方は「地球規模で考え、地域で行動する」とする環境問題解決のための実践規範としても有効であるが、この個別と普遍の考え方は、宗教系大学における独自な建学の精神と、その理念の普遍化、つまり現代に見合ったその拡大解釈の問題に対しても、解決の糸口を与えてくれる。 いまどき、「本学においては国際人は特に養成しない」と謳っている大学はない。当然のこととして、国際人を養成するという目的は、その大学の個別性とは何ら関係はない。個別性とは目的に到るために大学が提供し得る他の大学に見られない特有のカリキュラムの内質や、大学がよって立つその建学の精神に向けられている。従って、開かれた普遍主義に立脚して、個別をどのようにして活かしていくかという、学問的領域において当事者の実力が問われる。そこでいわゆる「大学の神学」の問題においても、この個別である建学の理念を、世俗化する現代において、普遍性をもって如何に解釈し適応するかということが問題となる。つまり、焦点はその解釈に基づいて、個別と普遍の間隙を埋めるものは何かということになる。普遍に通じない独自性は排他や独善に陥りやすい。 天理大学についていえば、教理に述べられた真理を犠牲にすることなしに、建学の精神を活かし現代の状況をふまえながら、この両極の橋渡しを可能にするユニークな構想と実践案が求められることとなる。本誌は、地域と地球、理論と実践、物質と精神、聖と俗、男性と女性、理性と感性、からだとこころ、科学と宗教といった対立概念を「二つ一つ」にする思考の試みを目指す。その中で建学の精神の中核をなす海外伝道を、異文化論の視座から貴重な生きた人間学として捉え、さらには様々な学問の領域に見られる個別と普遍、理論と実際の乖離に対して、天理教学を基底にその両極の学際的橋渡しにも、いささかなりと貢献できればと考えている。 「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 2号 グローバリゼーションと「裏守護」再考 天理教の根幹である「元の理」において、十の神名で象徴される親神の守護の働きは、一つ一つがそれぞれ独立した機能を果たし、その場所を占めながら、人間宿し込みの「ぢば」を中心に、全体として一なる神の守護に包摂・統一され、十全のものとなっている。その解説背景に、いわゆる「裏守護」の説き分けがあるが、その説き分けは、現代におけるグローバリゼーションの画一化の問題と、民族文化や原理主義の反逆を考える上で、非常に示唆に富んでいると考えられる。 深谷忠政本部員は『天理教教祖論序説』の中で、「いわゆる十柱の神の裏守護といわれるものは、天理王命が神々の神として元の神たることを明示するものである」とし、30の裏守護を挙げている。そして、方位をもって示される十柱の神の守護の説き分けは、神が存在論的にではなく、機能的に明らかにされている意味において天理教神観の特徴を示しているとする。 そこで世界の多様な宗教は、すべて十柱の神の守護のどれかを強調しているものと解釈し、キリスト教は「愛を重んじ、かくれた神の顕現という時間的関連を説く」故に、をもたりのみこと、対して仏教は、「人間の理知を重視して諦観を教え、縁起という空間的関連を重視」する故に、くにとこたちのみことの守護の上に成立すると言う。 『天理教教祖論序説』は、これ以上突っ込んで考察してはいないが、世界の多様な宗教思想が持つ、歴史的な特徴や多様な文化の個性を見極めることにより、その特性を親神の十全の守護に対応して検証することは、 「裏守護」説き分けの神意に添った「元の理」の文明的解釈であろう。サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』において、多極・多文明化する世界を語り、比較文明学会会長の伊東俊太郎が「文明調整」の方途を掲げる時、天理教学においては、「裏守護」が示唆するパラダイムの文明的展開が求められる。 天理教学が「裏守護」に関して、その書誌学的研究の領域に止まっているのは、神道や仏教見立てにおいて見られる非整合な配置にあるからであろうか。しかし、もともと世界の多様な宗教や文化、そして文明は相互に影響し合っているから、個々の教義の独自性を境界として、必ずしも相互に排他的に存在しているのではない。つまり、それらの教義には重なり合う部分が見られる。風土や歴史伝統による相違はあっても、人間として社会生活を成り立たせるための共通的倫理規範も当然持っている。それを集大成し、人類普遍の「地球倫理」を創出しようという国際的な試みもある。 ハンチントンも、たとえ「わずか」であっても、人間の道徳的規範である「普遍的な性質」は、あらゆる文化に見い出されるとして、普遍主義を放棄して多様性を受け入れ、共通性を追求することの大切さを強調している。この視点の方向は、自ずから「元の理」と「裏守護」の説き分けの根拠について再考を促す。親神の下に、人間の魂が平等である権利と、それぞれが違う心で造り出す文化相異に立つ個性は、まったく矛盾しない。加えて、現実の世界は、ファジーで成立っている。 「裏守護」の曖昧性、非整合性はこの世界の非条理な多様的現実に立脚している。「裏守護」を伝える「元の理」の構造は、諸宗教間の共存・調和に向けても、グローバリゼーション時代に対応する、天理教学の姿勢と新しい視点を提供するものと考えている。 「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 3号 私立大学存続の危機と天理大学 私立大学をめぐって、激しい環境変化が起っている。本年の速報によれば、都心にある私立大学を除き、特に地方に位置する私立大学は、なべて志願者数が激減している。前年度と比べると、学部や学科によっては7割減という危機的な大学も見られる。志願者数の減少は少子化だけが原因ではない。少子化が進む中でも、志願者が増加している地方の私立大学もある。志願者が激減する地方の大学と、増加する同じ地方の大学の違いは、一体何処にあるのかという点を厳しく見極めることは、それが大学存立の本質に触れているが故に教訓的だと思われる。その実態を的確に把握し、大学の施設や組織構造の中身を支える教育・研究の独自的・質的内容において、それを自学の実情に照らし、厳しい自己批判と評価を行い、学ぶことが大切だろう。 そのためには、例えば研究成果の「publish or perish」(出版せざれば滅ぶ)というアメリカにおける大学教員評価の通念を導入することも求められる。また、地域性や時代性に即応しない学部・学科のスクラップ・アンド・ビルドは、志願者の大学選択において、就職実績重視の大学評価が行われる現在、思い切って実践されなければならない。ソフトの貧弱な大学は、如何に建学の精神の言葉や施設が立派であっても、志願者増加を期待できないのは当然である。 平成10年の大学審議会は「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という長文の答申において、「競争的環境の中で個性が輝く大学」というサブタイトルを掲げている。つまり、「大学の個性」を大学存続の為の改革の基本理念に置いているのである。独自性なかりせば、生涯教育の受容や、入試方法の改革などは、本質的な問題ではない。まず私学に求められる個性あるヴィジョンを打ち出し、教育・研究の不断の改善を追求することが、長期的効果を実現するについて大切であると言うのである。 法政大学は改革方策として「開かれた法政21」、早稲田大学は「グローカル・ユニバーシティ」というヴィジョンを掲げ、大学としての特徴を打ち出している。そのヴィジョンに基づいて、例えば前者は独自のプランを立て、プログラム化(政策化)し、具体的な事業(プロジェクト)を行っている。そのキーコンセプトとして「グローバル化への対応」、「社会との交流」、「生涯教育の推進」の三つを掲げている(清成忠男『21世紀の私立大学像』)。 橋本武人天理大学学長は、2月16日の臨時教職員会議において、入試志願者の激減という結果を踏まえ、天理大学は2004年には全入時代に入るという危機感を述べ、学校法人天理大学の山田忠一理事 長が設置した諮問機関・大学運営審議会の下に、急遽学内における改革のための委員会を発足することを発表した。山田理事長は、私学の置かれている現在の状況を、生き残りをかけた「戦国時代」という厳しいことばで表現している。生存競争の時代は去り、私学は生存戦争の時代に突入したという認識である。この認識に立てば、生存への勝利を目指して、全員戦士という真剣味が関係者個々人に求められる。また勝れた戦略の構築と、その敏速なる広報を通して、学内戦士の意気投合が必須となる。 戦う意志と力のないものは、戦場において邪魔になる存在であるから、退去してもらうしかない。この真剣な戦いの経営原則は、企業も大学も変わりはない。大学崩壊・倒産を乗り越えるためには、小心翼々としている時ではない。 「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 4号 「大学の国際化」の落とし穴 「国際化」という言葉は極めて曖昧な日本語である。その原因はどうやら「化」という漢字にあるような気がする。「国際」的とは英語のinternationalの訳語として辞書には出ている。ここまではいい。しかし、それに「化」が加わって「国際化」するという日本語の自・他動詞に翻訳されると、途端にややこしくなる。つまり、「国際化」を意味するinternationalization という19世紀末生まれの英語は、明らかに他動詞が名詞化した概念を歴史的にも表わしているからだ。 最も権威ある英語辞典『オックスフォード英語大辞典』によれば、internationalizeという言葉は1883年のContemporary Reviewという雑誌が初出であり、「コンゴを国際化するに際し英国と手を結ぶようベルリン政府に対し熱心な訴えがなされた」という文脈において使われている。これは江淵一公著の『大学国際化の研究』からの孫引きであるが、ここにおける「国際化」とは、コンゴが英国やドイツの仲間入りをするということではなく、英独の植民地下に置かれ、共同管理のもとに支配されることを意味する。 一方、『日本国語大辞典』によれば、「国際化」とは「国際的なものになること。世界にするようになること」を意味している。そこには「国際化」を先進的な行為であると見なし、自己の到達すべき彼方にある理想と見なす意識が見られる。同時に、「国際化」には彼方の領域に組み込まれる一種の自己変革、組織変革のプロセスと捉えられている教育的風景が見受けられる。従って、「国際化」に関する議論も、日本人が相手を「国際化」するのではなく、先進欧米諸国に受け入れられるようになるのにはどうすれば良いかというふうに方向づけられている。こういった直線的「国際化」の理解に立つと、国際交流を通しての異文化相互理解も「文化交流」とはならず、「文化直流」に終ってしまいがちだ。 近年富みにNGOによる途上国支援の意識が我が国の若者の中でも高まり、それが「国際交流」を超えて、脱国民・国家的な「民際交流」(transnational)に進化しつつあるのは喜ばしい。こうした時代潮流の中で、現代の大学がカリキュラムの改革や、プロジェクトを立ち上げるに際しては、例えば「国家の安全保障」から、国境を超えた「人間の安全保障」、つまり地域紛争や飢餓、貧困、開発による自然破壊や、人権侵害など個々の人間がさらされている様々な脅威にどのように対応するかという脱「国際化」の視点がきびしく問 われるようになるだろう。 「国際」という言葉は、そもそも文化・宗教の内実とは馴染まない概念である。「世界たすけ」といっても、「国際たすけ」とは言わないのを見てもそれは分かる。国際とは国家と国家との関係性であり、たすけの対象を意味してはいない。国家とは、近代において成立した政治的、人為的なシステムであるから、文化・宗教単位で成立する平和国家は基本的にあり得ず、従って厳密な意味で、本来「国際宗教」や「国際文化」という概念は論理的に成立しない。 このような次第で、経営組織としての大学の「国際化」と、教育の中身における「国際化」を考えるに際して、「国際化」という言葉の持つ多義性に「化」かされてはならない。そのうち国際的人材の養成といった言葉は使い古されて、脱国家的な世界的人材の養成というグローバルな概念にとって変わる時代が来るであろう。 「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 5号 「自然資本主義」思想の台頭 アメリカのコロラド州にあるシンクタンク・ロッキーマウンテン研究所(RMI)の所長であるA・ロビンズとL・ロビンズ女史、そして著名な経営評論家のP・ホーケンが、1999年共著で『Natural Capitalism: Creating the Next Industrial Revolution』(『自然資本主義:次期産業革命の創造』仮訳)という本を出版した。この400頁に及ぶ大冊が提示する新しい経済思想のパラダイムは、いま欧米において環境破壊と人類の開発の未来を考える政財官界やNGOの中で、熱い注目を浴びている。すでに独語の翻訳は出版され、仏、露、中、葡、日本語の翻訳がいま進行中である。 ある書評は、アダム・スミスの『国富論』が第一次産業革命のバイブルであったとすれば、『自然資本主義』は第二次産業革命のバイブルになるであろうと絶賛している。伝統的資本主義の産業構造は、人的資本、財的資本、物的資本の三つを基本的な資本と見なし、富を追求する手段として自然を搾取してきた。 しかし、自然を資本とみる「自然資本主義」の新しい考え方は、自然の生態系のシステムや働きに学ぶ事によって、逆に環境や組織のあり方を改善し、人類が豊かになる方法を啓発しながら、組織に改革をもたらすモデルを提案・実践させることで、その正統性をプラグマティックに証明して見せるという点にある。 さまざまな企業や行政が、RMIのコンサルティングを受け、環境保全と経済発展を有機的に両立させ、著しい純益を生み出しているといわれる。顧客には、日本の著名なゼネコンも含まれている。 クリントン大統領は、昨年の11月、イタリアのフローレンスにおける演説において、この著が主張する「自然資本主義」の意義についてふれ、珍しく一出版社の本の宣伝を行った。 RMIの月報『RMI Solutions』2000年4月号は、クリントン演説の部分を次のように引用している。「ここ数年私は、経済成長かそれとも環境保全、環境改善かという二者択一をする必要はなく、私たちにとって必要なのは、産業時代が採用してきたエネルギーの使用パターンを断念することであると強く確信するに到った。……そこで、私は皆様方全員に、一冊の本を読んで頂く事を強くお勧めしたい。この場所で、その本を売り歩きたいほどだ」と述べ、「自然資本主義」の熱狂的な支持者として宣伝を行ったという。 クリントンは「この書は、現在私たちが、環境を悪化させるのではなく、浄化することによって、さらに豊かになることを可能にするテクノロジーを持ち、またそのようなテクノロジーが私たちの視野にすでに入っているということを、根本的に証明しているのは議論の余地がない」と続ける。本年4月カリフォルニア工科大学で開かれた「キャンパス緑化・コミュニティー緑化」というシンポジウムで、筆者は地球温暖化を防ぐ竹林の利活用と、産業廃棄物を素材として我が国が開発した、セメントや木材に代わる先端テクノロジーの紹介を行った。「自然資本主義」の最新情報は、その時基調報告を行った RMIのC・C・ロッペイック上級研究員から得たものである。氏と討論しながら、自然は神の身体であり、その生態系の機能を神の働きと教えられる天理教の自然観に、世界の高山がだんだんとその実証をたずさえて下山・接近してくるという実感を持った。教学を学ぶ者にとって高みの見物を決め込んでいる時ではない。 「グローカル天理」巻頭言集 第一巻 6号 混沌化するローマ字表記 情報システムのめざましい進化がグローバリゼーションを加速化させている。国境をいとも簡単にこえて、英単語が日本語のなかにはいりこんでくる例も枚挙にいとまがない。逆に日本語が英語のなかにはいりこんでいく例も増えてきている。後者の場合は、sushi, tsunami, sasanquaなどにみられるように、英語としての正式な綴りが統一されていて、それはsusi, tunami, sazankaという綴りでもよろしいというわけではない。 ところが日本語ではどうだろうか。ローマ字表記ひとつをとってみても、訓令式あり、ヘボン式あり、日本式あり、勝手気まま式あり、その表記は多岐多様にわたっている。街をあるくとkobanというローマ字が、新装なった「交番」のサインとして表記されているのが、最近目につくようになった。外国人のためなのであろう。しかし、「小判」のローマ字表記もkobanである。「交番」と「小判」はおなじ表記であるから発音もおなじであり、日本語初級者にとっては、koban は同音異義語と解される。 実際はこの二語の発音はあきらかに異なるので、まことにややこしいことになる。看板といえば、能登の「見附島」では、外国人観光客むけに・・ mitukesimaとmitsukeshimaという異なった表記の看板が二本立っている。管轄省庁によって、日本語の表記がちがっている。駅や町の看板のローマ字表記の不統一は、それが日本語、外来語であるにかかわらず、目をおおうばかりである。 それは日本文化が多様性を受け入れるという、優れた寛容性をもっているからであり、目くじらたてるほどでもないという人もいる。外務省は、パスポートにアルファベットで表記する氏名について、4月から「OH」と長音表記することを認めると発表した。これまでは「Ono」というローマ字のヘボン式表記しか認めていなかったため、小野さんや大野さんたちから・・「Ono」だと海外で正確に呼んでもらえないことから起きる苦情が寄せられていたからである。小野さんが大野さんになったり、大野さんが小野さんになったりするような例はほかにも山ほどある。「オオノ」なのか「オウノ」なのか「オーノ」なのか。長音はかな表記においても不統一である。 言語は文化の遺伝子であるといわれる。しかし、かくのごとき正書法も、標準語をももたないという世界でもめずらしい国は、ますます情報化する世界にあって、経済活動においても、文化発信においても、すこぶる不利なのではないかと、5月20日天理大学アメリカス学会で記念講演された小和田恆大使にご意見をうかがった。そのとき氏は、英語も日本語も相互にそれが母国語でないという条件のもとでは、それをマスターするについてのむずかしさと必要な努力は同等だとしながら、かつての高村外務大臣は、小村寿太郎大臣の末裔かと他国の外交官からたずねられて、名刺のローマ字表記を・・KomuraからKoumura にかえたというエピソードも披露された。 日本語もおなじく煩雑で、氏の名前小和田をKowadaかOwada と読むかは、学ぶしか方法はないというわけである。はたしてこれでよしとすべきなのだろうか。 日本文明存続のためには、「国語」という砦からでて、「世界語」としての日本語のあるべきすがたを、文明の視点から見直すべき時がきていると思われる。文明の問題は、なによりもまず、情報の問題であるからだ。
by inoueakio
| 2008-11-05 21:43
| 巻頭言集
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