2001巻頭言1~6月号
2001年1月
新「教養」概念の創出と天理大学
入試地獄の時代は過ぎ、日本の大学はいま確実に転換期を迎えている。とくに地方の私学においては、入学志願者の激減に閉校せざるを得ないところも出てきた。閉校とは企業でいえば倒産である。会社が倒産すれば、社員は失業し、新しい職場を探さなければならない。ところが、不景気になると倒産は自分の会社だけではないから、再就職は至難の業となる。大学の場合は、入試地獄が姿をかえて就職地獄となり、地獄は深みを増して、その領域は卒業見込みの学生だけでなく、大学本体の縮小・消滅により、失職する教職員に及ぶ。
そこで生きのびるためには、思い切った経営の合理化と個性ある教育内容の充実が求められる。とくに私学は、その建学の精神にたちかえって、未来をとりこんだ独自のヴィジョンを打ちだし、それを可能にする魅力的なプロジェクトを創意、実践する気概と決断を広く示さなければならない。宗教私学の立場からいえば、天理大学はいかにそのスポンサーである天理教教団と社会の期待に、直接間接に応えることができるかという点に問題の焦点は絞られる。
まずそのためには、信者・子弟に魅力的な大学であることが第一で、その個性的魅力が独自の伝統を創りあげ、それが学問や部活動などを通して社会的普遍性を帯び、教外一般の学生に及ぶことが理想的である。この意味で、大学経営者や教職員は、私学の個性と社会の普遍性を橋渡しするものは何であるかをしっかりと押さえておくことが大切であろう。そのキーワードのひとつはいわゆる「教養」という概念である。そこで目指すべきは、天理大学で培う「教養」とは、それが教養課程であれ、専門課程であれ、部活動であれ、他の私学とどこが共通し、どの点が異色であるかについて、まず関係者が誇りを持って共有できる新しい時代が求める「教養」概念を創出することである。大学再改革の評価は、改組の中味であるべきこの点に絞られるのではないか。
では、宗教私学である天理大学における「教養」とはなにか。人文、社会、自然の3系列科目をリベラル・アーツとして教えることが教養教育ではない。リベラル・アーツはプラクティカル・アーツである職業的教科と対立する概念であっても、専門と対立する概念ではない。そもそも日本語の「教養」に相当することばも概念も、外国語にはないからややこしい。加えて「教養」とはなにかという合意もない。元一橋大学長の阿部謹也は、その著『大学論』の中で「教養とはいかに生きるかということを考える姿勢からうまれるもの」と述べ、「教養とは世間の中で自分の役割を認識すること」とも言っている。さらに私流に言えば、「教養とは自分は社会にどういう点でお役に立ち、喜んでいただけるかということを自覚すること」と言えるだろう。とするならば、「教養」とは限りなく宗教的な学際的「人間学」に近づいてくることがわかる。
従来の儒教道徳と異なる「教養」という概念の創出は、森有礼が福沢諭吉や西周などと結成した日本最初の学術団体、明六社の啓蒙活動に端を発している。そこでは、維新以後、近代化に向かう国家制度の枠組みとして、「教育」の理念が制度化されていくことと並行し、「教養」という概念は、文化創造の思想的意味を担うべきであるという位置づけがなされていた。いま、時代は振り出しに戻り、この「教養」概念の新しい文化創造の思想的意味が、再び大学改革に対面して問われている。


2001年2月 
スペシャリストからジェネラリストへ
近代「経済学」は物理学をモデルとし、徹底して数式を駆使しながら発展してきた。経済現象を人間の価値観や文化、宗教などと切り離してとらえてきたのである。これに対して「経営学」は、まさに生きる人間の現場そのものを研究対象にしている。したがって、経営学は哲学、宗教学、社会学、比較文化・文明論、教育学、心理学、人類学、さらには科学技術、国際政治学などをも視野に入れながら、超学際的な経験知、体験知をとりこんだ「総合学」とも言える。総合学という意味からすれば、それはいま興りつつある「地域学」という学際領域ともつねに接点をもつと考えられる。
天理大学改組に際して、国際文化学部に地域文化研究センター、人間学部に総合教育研究センター新設の構想が打ち出されているが、後者もこれまた「総合学」としての天理人間学に基づいた研究・教育を行うであろうから、「地域学」ともども総合学としての「経営学」的手法を視座に入れておかねばならないだろう。時代はスペシャリストよりジェネラリストを求めるように動いている。細分化された専門領域に学者が閉じこもっていては教育者失格となるおそれが出てきた。これらの総合学としてのさまざまな学問における研究は、生きるというすべての側面、つまり一方では一個の人間の内なる精神領域の研究に収斂し、他方では異文化・国際的領域への広がりを経て、惑星地球さらには宇宙領域へと進出する人類の未来の営みまでとりこむであろう。その活動方向は、すべての調査、研究、思索といったものが、そこから還元される新しい理論や、個と普遍を包摂したグローカルなパラダイム創造の世界へと拡大・進化していくことが期待される。
国際経営といえば、世界の文化や宗教の多様性が色濃く影響してくる。それは国家間の関わりに限定されるものではない。多民族単一国家においても、グローバリゼーションの侵入により、経済と異文化の問題はますます深刻となっている。
多民族国家マレーシアの北方にイポーという小都市がある。そこには華僑が経営する3千頭クラスの養豚場がある。この養豚場は、国連がモデルとするようなリサイクル・システムを飼育過程にとりいれていた。つまり、高台にある錫鉱山のくぼみを貯水池とし、スロープをつたって豚舎の屋根に張り巡らされたホースから出る水で、豚に朝勢いよくシャワーを施して目をさまさせる。3千頭の豚は、眠りからいっせいに起こされ、洗浄され、糞尿をする。排泄された糞尿が排水溝を伝って用水に流される。池には中華料理用の魚が飼われている。魚が豚の糞尿を餌にする。流れにくい固形の便や、屠殺後のこされた豚の骨は粉末にされ、サトウキビ畑の貴重な肥料として使われる。一方、サトウキビの繊維であるバガスは豚の飼料や燃料、またパルプの代替品として活用される。鉱業と養豚業、水産業と農業、製紙業が一体となって、経営はゼロエミッションを見事に達成していると思われた。しかし、ムスリムのマレー人は、豚が介在する労働には従事しないし、砂糖や魚は買わない。
先月インドネシア味の素でも、製品の中に豚肉酵素が混じっていたとして社長などが逮捕されるという事件があった。このように文化・宗教の問題は、ものごとが国際化するというプロセスの中で、避けて通れないということを肝に銘じておくことが大切である。海外伝道においてはなおさらのことであろう。

2001年3月   
「節から芽が出る」─竹の神秘
古来、竹には呪力が籠められていると考えられていた。箕や籠には生殖と受胎にかかわって霊力があるとみなされていた(沖浦和光『竹の民俗史』)。竹は木でもなければ草でもない。どちらでもないというはっきりとした境界をもたない竹の曖昧性を、実体のないカオスとしてとらえると、秩序が成立する以前の渾沌・カオスにおいては、自然に内在する神々が森羅万象を動かしているから、ボーダレスな竹は、神々の霊力と感応する。その故に、竹は呪物として用いられていたのではないかと沖浦は説明する。納得のいく解釈である。極寒でも葉は青々とし、慄然と節目正しく真直ぐに伸びる竹の気品あるたたずまいは、君子の象徴的表現として広く人々に受け入れられてきた。竹の節はまた転機の旬をも意味する。
そこで、竹と霊力と言えば、想起するのは竹取物語であろう。母胎として見立てられる竹から生まれたかぐや姫は、竹取り翁に育てられるが、その呪力によって貴人や権力者の求婚をことごとく拒絶する。谷底からの高山に対するフェミニストかぐや姫の反逆精神とも解釈できないことはないが、物語はその呪力の背後に月の霊力があることを示して終わっている。生命誕生の神秘には、月の引力がつよく働いていることは科学的にも実証されているが、物語りの文化伝承の中では、竹がその神秘の媒体となっていることに注目したい。
竹の生命力と言えば、ベトナム戦争による広大な焦土の中から、地表を突き破って最初に発芽したのは竹であった。竹は地下にその根を網のごとくにはり巡らしている。竹がその根茎にある節々から無数の芽やタケノコを吹き出してきたのである。
おさしづに「根先から芽が出る」「根から芽が出る」とある。竹にはあっても、樹木が根先から発芽することはない。「まいたるたね」や球根からも芽は生える。この大地から吹き出る芽は、それぞれ一本の植物に成長するから、地上の幹や枝から出る樹木の芽とは、その意味が異なる。つまり、地上の樹木の芽は、大地の根に直結していない。また樹木の節は、主として芽が出て枝となった痕跡を指しているので、それを芽が出る場所、芽が出る旬を意味する教理上の「節」と解釈することは、比喩の意味を矮小化する。したがって根と枝、地上と地中における、植物の節の生態的相違に注目することは、教理の神学的解釈においてきわめて重要となる。その教理展開には、ポスト構造主義者G・ドゥルーズのいう多方向・重層的なリゾーム(根茎)の分節的概念などが参考となろう。
「節から芽が出る」というおさしづの言葉は、信仰生活においてひろく使われている。原典ではあらためて竹の節とは書かれてはいない。それは竹に様々な形で親しんだ当時の人たちにとっては自明のことであったからである。樹木の節と解釈できる箇所もおさしづにはあるが、辞書を引くまでもなく、「節」の第一義は竹の節を意味している。問題は、「節から芽が出る」の神意は、「根から芽が出る」という言葉において、竹のもつ特異な生態と構造が神秘を呼び込み、そのイメージを象徴的に拡大深化させ、私たちが現実の精神世界に切り込んでいく真の力を与えてくれるのではないかという点にある。あらたな秩序の誕生も、魂や組織の再生も、地中の渾沌とした暗黒に張り巡らされたねばり強い竹の生態に象徴される根茎(リゾーム)の世界において、その節々から芽吹いてくるのだということを信ずることがいま大切であろう。

2001年4月  
クローン人間と天理教
ヒツジや牛のクローンは、商業的な人間の自己利益を満たすために誕生した。しかし、クローン人間は、経済的欲求からではなく、子供が欲しいという夫婦の心理的要望にこたえて作られる人道的営みである、という理由が推進派の論拠となっている。と言っても、人間の本性である自己の世俗的欲望を満たすという点では、理屈は同じである。
米ケンタッキー大学のパノス・ザボス生殖生理学元教授は、無精子症の夫の体細胞から核を取り出して妻の卵子に移植し、一、二年のうちに夫と遺伝的に同一のクローン人間を誕生させると発表した(『朝日新聞』1月29日)。また、昨年の9月、医療ミスで死亡した生後10ヵ月の男の子のクローンをほしいという30代の夫婦は、5700万円を「クローンエイド」という企業に支払った。会社はカナダの「ラエリアン・ムーブメント」という宗教団体が、クローン人間作りのために設立したといわれる。クローン用の細胞は、医療ミスで死亡した男の子の冷凍保存された皮膚や血液から取り出される。教主ラエルは生まれたクローンの赤ちゃんを、テレビに出演させることを条件にクローン作りを引き受けたと言っている。かわいいクローンの赤ちゃんを見ると、「みんながクローンを欲しいと言うに違いない」ということらしい(『毎日新聞』1月3日)。ここには、赤ん坊が一人の人間として成人したときに持つであろう様々な問題についての配慮と想像力が完全に欠落している。赤ん坊は大人のペットではない。
移植医療の夢は拒絶反応のない臓器を再生することであった。ところが、1998年にES細胞の培養法が確立されたことによってそれが可能となった。ES細胞とは、受精卵が細胞分裂を始めたごく初期の段階に生まれる細胞群で、「万能細胞」とも呼ばれている。そこからすべての臓器と組織が分化して行き、動物の身体となる能力をもつ細胞群である。この「万能細胞」の培養と、遺伝子組み替え技術、そして体細胞クローニングを組み合わせれば、脳死・臓器移植に全く頼ることなく新鮮で拒絶反応のない臓器を作ることが実現する。生命の尊厳をうたう宗教が、この神の領域に迫る科学技術とどう折り合いをつけるかは教義の根幹に関わる重大な問題である。
ヒトの生命は卵子と精子が出会ったときに始まるとするカトリックは、「胚」を「胎児」とする立場をとっている。天理教では「元の理」で、月様が男雛型であるいざなぎの胎内へ、日様が女雛型であるいざなみの胎内へ入り込んで人間創造の守護を教えられたとある。したがって、卵子と精子の結合によって生命が発生するという立場に立つ。
ところが、平成12年12月に公布された我が国の「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」の第2条7項には、「胎児」を「人又は動物の胎内にある細胞群」と規定している。つまり、「胎児」を「細胞群」というものとしてあつかっているのである。こういった人間機械論、心身二元論に基づいた思想の行き先には大きな危機感を持たざるを得ない。
人間宿し込みの場所をぢばと定め、天理王命の神名をさずけて、甘露台を据え、人類救済のつとめと礼拝の目標とし、親と子の関係として神と人間の関わりを説き、前世の因縁を前提として個人救済を説く、天理教の布教活動において、遺伝子の人工的操作やES細胞の再生医療への採用は、その教えの根幹を揺るがすだけに、緊急に討議しなければならない重大な問題である。

2001年5月   
黄砂と環境破壊

3月下旬屋外に止めていた車のボンネットが泥雨でひどく汚れていた。中国大陸で猛威を振るう、秒速17メートルの「砂塵暴」が、黄砂となって日本に到来したのである。黄砂とは、中国大陸のゴビ・タクラマカン砂漠や黄土高原などから、シベリヤ、モンゴルからの風によって舞い上げられた砂のことだ。春は花粉と黄砂をともなってやってくるのだが、今年はとくにきわ立っていた。空中花粉にくわしい環境市民ネットワーク天理の久保田有さんによると、ここ天理市には黄砂が飛んでくるだけではなく、我が国でも有数の花粉が飛び舞う風土にあるらしい。この時期のエアロゾルには、花粉と黄砂が同時にみとめられ、加えて石炭灰などの中国における大気汚染物質が黄砂と混ざり合っていたから、顕微鏡で見るその色もどす黒かったという。日本への黄砂の飛来量は年間300万トンといわれる。今年の京都あたりは近くの山々が霞んで見え、日本海側では黄色い雪が降ったところもあったらしい。黄砂は大きな粒子だと海に落ち、小さな粒子は日本を超えて北大西洋まで運ばれる。ロスアンゼルスも数年前黄砂にみまわれたとUCLAのV・ニットレイ教授から聞いたことがある。黄砂現象は目に見えて環境問題はグローバルである事を身近に証明してくれる。今年は元日の北京を直撃し、砂が眼や口や鼻に入って困ったという留学生の帰国談も耳にした。しかし、中国大陸の本格的な「砂塵暴」は、村や広大な農地を簡単に埋め立ててしまう。ここ数年は砂あらしの回数も増え、その影響は西部や北部から上海、香港など東部、南部へもひろがり、深刻さを増している。
開発による膨大な石炭燃焼が作り出す大気エアロゾルと、自然由来の黄砂エアロゾルが高濃度で混ざり合った大気汚染は、中国特有の環境汚染として知られ、酸性雨は別名「空中鬼」とも言われている。北京の本屋で見つけたのだが、中国には『砂漠学』という教科書があり、移動砂漠と格闘する営みを「砂漠退治」と表現してある。私は石炭灰や酸性雨と混ざって降り注ぐ黄砂は、土壌や植物や河川にも害を及ぼし、中国大陸ばかりではなく、日本においても環境破壊の原因になっているのではと思っていた。しかし、よく考えてみれば、人類最古の文明をはぐくんだ黄土高原は、この黄砂が偏西風に巻きあげられ降下し積もったところで誕生した。黄土高原は日本の1.4倍の広さで、深いところは200メートルもあると言われる。200メートルと言っても黄土高原をつくった新生代の第四紀を200万年で割れば、年間の堆積量は1ミリに過ぎない。黄砂はマグネシウム、カルシウム、リンなどを含んでいるため、栄養源が乏しい海域では植物プランクトンの重要な栄養源にもなる。沖縄諸島付近では、そのため赤潮が多量に発生するのがその証拠であるという。石炭の町である大同市では降ってくる雨は酸性ではない。土壌のphも8以上であると報告されている。空中で強いアルカリ性の黄砂が働いて雨の核となり、酸性雨を中和する働きをしていることが証明されたのだという(緑の地球ネットワーク・高見邦雄)。
このことは砂漠緑化が成功すると、地球の生態系は陸海共に激変・悪化することにもなる。善と思われている砂漠緑化は、長期的にはグローバルな環境破壊であるという逆説も成り立つのである。地球生態系の自然に内在する悠久の働きを、自動車のボンネットを汚くするというレベルで捉えてはならない。自然の黄砂は善でもあり悪でもあった。

2001年6月 
新・「国際参加」プロジェクトの意義
本年1月26日、春季大祭の甘露台つとめが執り行われている最中、インド西部グジャラート州において、リヒタースケール7.9の未曾有の大地震が発生した。崩壊した村は9000、死者は数十万人を越えていると推測される。
世界各国の政府やNGOは、いち早く救援活動を開始し、地震多発国として知られている我が国からも自衛隊をはじめ、医師団が派遣され、NGOは広く国民に救援資金を募り、救援活動を開始した。しかし、基本的人権を支える衣食住のうち、いまも被災地では住居が決定的に不足していると国連は伝え、救済の継続をよびかけている。この被災地域は、20世紀の後半期にも、サイクロンによる大規模な水害を経験し、いまは逆に干ばつによる深刻な水不足にも見舞われている。
時あたかも、天理大学は志願者数が下降するなか再改革の途上にあるが、改革の実践的要項として、学生の「国際参加」を掲げている。「国際参加」の目指すところは、従来の語学研修や異文化体験の海外研修スタイルを繰り返すことにあるのではない。他者への献身的行為を通して、文化・言語をこえて「人間とは何か」について学び、人類の一員としてその誇りと責任を感じる気風を養い、知識と人格の分裂を避け、それを統合させて行くという実践的「活学」の方向を目指す。教内の学生について言えば、この「国際参加」は海外伝道者養成という天理大学の「建学の精神」を直に体感する場を提供することにもなる。そのためには「教学協働」の理念が組織として十分に活かされる配慮が望まれる。
本プロジェクトは、おやさと研究所が、まずパイロット・モデルを構築し、その成果を評価した上で、大学当局にプロジェクトの継続化を提案することとなった。その間、大学においては「国際参加」プロジェクト推進委員会を設けて協力することとなり、理事会でも承認された。現在、本研究所は、国連ユニタールやUNDP(国連開発計画)を主として、インドのNGOなどとの協働体勢を作りあげている。
海外医療協力についていえば、本教はコンゴ、ラオスなどで貴重な経験をもつ。「教学協働」の大学改革方針に基づいて、我が国でひろく知られる総合病院・憩の家の協力を得ることが出来れば、その助け合いの相乗効果ははかり知れない。本プロジェクトは、私学の宗教的精神によって開発された、本学独自の献身的「国際参加」を指向している。それは新・教養教育プログラムとして国内外の高い評価を得るものとなろう。勿論、グローバルに海外拠点を持つ天理教の地域伝道におけるバックアップにも貢献する。この「教学協働」の姿勢は、プロジェクトの中身を通して、参加者に「天理人間学」への教養的道筋を照らす大きな具体的効果をもたらすに違いない。
天理大学と本教の医療機関の協働による海外におけるジョイント・プロジェクトの実践は、新しい時代における世界たすけの一つの形を創出することでもあり、適切な広報を通して、教内のネットワークにおいてもさらなる勇みをもたらすことになることが期待される。
本プロジェクトは、本学改革に際して設置される、3つのセンターの活動にさまざまな視点から貢献することはいうまでもない。というより、このような「国際参加」を通して、3センターの独自の活動が有機的に関連づけられることが望ましい。本プロジェクトの具体的な内容に関心のある読者、天理大学の学生・教職員は、おやさと研究所にお問い合わせ下さることを期待している。
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by inoueakio | 2001-01-03 16:09 | 巻頭言集
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