2006巻頭言1月~6月号
2006年1月
「天理水泳」第5回天理スポーツ・ギャラリー展の開催

天理大学おやさと研究所では天理スポーツの栄光を顕彰し、天理スポーツ教学の確立をめざして、天理スポーツの歴史に関わるさまざまな資料を整理・展示する天理スポーツ・ギャラリー展と、すぐれた天理アスリートによるシンポジウムを企画・開催してきた。第1回は天理柔道、続いて天理ラグビー、天理野球、天理ホッケーの展示を経て、第5回は「天理水泳」をテーマとして、2006年の1月天理でギャラリー展を開催する。
天理水泳の生みの親は天理大学創設者である中山正善2代真柱様であった。創設者は東京帝国大学を卒業した年の昭和4年8月、後に天理プールの設計に携わる平木一雄氏を伴って堺市の浜寺水練学校を視察し、その開設者でもある高石真五郎IOC委員と6時間にも及ぶスポーツ談義を行っている。創設者がオリンピズムについて直接関心を抱いたのはこの時であったと推測される。その後様々な経緯を経て、昭和13年天理高等女学校に天理初の25mのプールが竣工する。プール開きでは創設者もリレーに出場した。その貴重な泳ぎぶりは記録映画に保存されている。
一方、終戦後天理語学専門学校から誕生した天理大学は、1949年4月7日第1回の入学試験を実施した。同4月19日「第1回天理教全国体育大会」が高松宮様のご臨席のもとに開催され、翌年の1950年8月、50m9コース競泳用と飛び込み用のプールを持つ「天理プール」が竣工。そのオープニングを祝って、日米水上親善競技大会が開かれた。当時天理中学生であった筆者は、目の前で水しぶきを上げて泳ぐ“フジヤマの飛び魚、古橋広之進”の姿を見て大いに感動した。古橋氏は後ほど創設者にふれて次のように語っている。「今でも、懐かしいその人たち(同大会参加のアメリカ選手)に会うと、必ず2代真柱様のことが話題に出る。今まで遠征した中でどこが一番良かったかと聞くと、日本がいい。じゃあ日本でもどこが良かったかと聞くと天理だとはっきり言う。(中略)とにかく、われわれの年代で水泳をやった人なら、みんな2代真柱様を知っているし、また感謝している」と。戦後、日本水泳連盟の復興に尽力した田畑政治同連盟名誉会長は、「水泳日本再建の動力である私に、ガソリンを注入して動かしてくれたのが、真柱である。そのため、日本水連は、どの競技団体より先に店開きをし、全面活動に入ることができたのである。思えば、真柱は水泳日本の大恩人である」と述べている。
1955年に西日本で初めての体育学部が天理大学に開設される。そして1960年創設者はローマオリンピックを視察、翌1961年には柔道使節団として欧州を訪問し、柔道が東京オリンピック(1964年)競技種目に採用されるよう、アテネのIOC総会に出席の旧知のブランデージ会長などに働きかけられた。その経緯については、当時現場に居合わせた全日本学生柔道連盟理事長の早川勝氏が『みちのとも』の追悼号の中で詳しく語っている。同じく東京オリンピックでバレーボールが採用されたのも創設者の尽力があったという史実が『体連会長2代真柱様を偲ぶ』という追悼文集の中で、奈良県体育連盟副会長であった谷義一氏によって詳しく記録されている。
1900年開校の天理教校では剣道と野球、1907年には柔道が始まった。創設者(1905〜1967)は幼少時代「青葉」という野球チームを結成し、大将格で活躍、14歳で柔道を始められる。世界の近代スポーツの歴史が一世紀余りであることを考えると、天理スポーツの歴史は我が国では際立って先駆的であり、輝かしい伝統をもっている。その歴史を顕彰する「天理スポーツ殿堂」の設立が日本スポーツ史のためにも切に望まれる次第である。関連資料は展示会を通して出そろっているのである。

2006年2月
「誰か身代わりに立つ者はないか」

明治14年、天理教教祖の長男秀司(1821〜1881)が危篤になった。その時、お願いづとめをさせて頂きたいという側近の人たちに向かって、教祖は「誰か身代わりに立つ者はないか」と仰せられたという。この固唾を呑むようないきさつについては、山沢為造が『みちのとも』(初代真柱20年祭特集号)昭和8年12月5日号において回想している。為造の回想以後、管見によればこの決定的な瞬間において教祖が投げかけられた「身代わり」という限界状況における課題にふれた文言や論考は見当たらない。
「別席」の話には、17、8回の官憲の弾圧による教祖監獄へのご苦労に際して、秀司は何度も教祖の「身代わり」になりたいと申し出たが、「身代わり」になれなかったことの苦しみが語られている。また、「おふでさき」では「みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで」(12:118)とも仰せられている。つまり、秀司の足痛は通常の足痛ではなく、立教を促した「身代わり」としての痛みであり、生涯その痛みを台として、教祖は先人の心の成人を急き込まれた。そして、その「たすけ一条」にむけられた「身代わり」の極みは、「つとめ」の完成を25年の寿命を縮めて急き込まれた教祖年祭の元一日にあった。「ひながたの道」において、魂の因縁から教祖とともに生涯を全うした中山家の人たちは、それぞれがそれぞれの「身代わり」の道を歩まれたとみられる。
この解釈に立つ時、秀司の命の瀬戸際に立って「誰か身代わりに立つ者はないか」との問いかけは、時空を超えて存命の教祖の言葉として現代によみがえる。つまり、その言葉は「いま、お前たちは、誰のために、そして何のために、身代わりに立つことができるのか」という実存的主体的決断を迫る問いとなって、私たちの胸の内に鋭く投げ返されて来る。教祖年祭の意義は、それぞれがそれぞれ自身の「身代わり」の対象を信仰的に明確に定めるところにある。問われているのは、自分は何のために生きているのか、何のために命を投げ出しているかの具体的な目標射程の決定である。いま世界でそれを敢然と実行しているのは、悲しいかなテロリストの一群であろう。「世界は鏡」がここにも読み取れる。
教祖31歳の頃、疱瘡にかかった預かり子を二人の娘の命と自らの命を「身代わり」に立てて助けを乞われた。「身代わり」となった二人の子供は願い通りに夭折し、預かり子は助けられた。教祖の「身代わり」の願いが叶い、可愛い我が子の臨終の枕元に座された教祖は、この瞬間から自分の命も「身代わり」に神に差し上げたもの、亡きものと納得されたと拝察される。かくして預かり子一人の命を乞う教祖の自律的、個別的「身代わり」の心定めは、立教の時に至って、他律的に親神によって全人類救済の普遍的「身代わり」に転換・昇華されることとなる。「ひながたの道」における「身代わりの道」は、立教以前にその種が蒔かれ、伏線がしかれていたのであった。立教後、自らの流産の予言的体験を通して示された厳粛な「をびやためし」も「をびや許し」のための親の「身代わり」的痛みを通してであった。
神の「ためし」には、「身代わり」の痛みが共存している。「ひながたの道」における「身代わり」は、一過性の利他的・犠牲的行為や贖罪ではない。「身代わり」は、教祖50年の「ひながたの道」を支える連続する重要な「かたち」であり、倫理・道徳を超えた「身代わりの道」としての天理教教理であると考えられる。この自覚と実践なしに「魂の成人」はないのではないか。

2006年3月
玄奘三蔵と「身代わり」申、赤衣と証拠守り

『教祖伝参考写真集』(天理青年教程第29号)に教祖「御手づくりの品」として紹介されている赤い「ぬいぐるみ」の写真が前々から気にかかっていた。それはこの写真が中国の敦煌楡林窟において見た「玄奘三蔵取経図」壁画の下辺に描かれた玄奘が引く白馬の背から垂れ下がる布切れにぶら下がっていた赤い「ぬいぐるみ」と酷似していたからである。これは庚申の「身代わり」申ではないかというのがその時筆者が抱いた直観であった。帰国後、早速確認のため奈良町資料館の奈良庚申講本部を訪れた。驚いた事には、そこには筆者が見た玄奘が引く白馬の鞍からぶら下がる「身代わり」申の模写が掲額されていた。一方、玄奘「身代わり」申に酷似する教祖の「ぬいぐるみ」は、辻靖雄本部員宅に所蔵されているものである。明治7年、教祖が赤衣を召し始められた頃、辻忠作が直に頂かれたものと推測される。
奈良町資料館で入手した説明書によると、「身代わり」申のルーツは敦煌にあり、シルクロードを通って奈良に辿り着いたのではないかと書かれている。同じ「身代わり」申は、1987年に開かれた「大英博物館所蔵 日本・中国美術名品展」の展示品の一つに、敦煌石窟の祭壇等にかける祭具として使われた唐代の垂れ幕についていたという。資料館にそのレプリカが掲額されている。この「身代わり」申も、手足をくくり、腹に帯をしている姿も庚申「身代わり」申と瓜二つである。白馬を挟んで一匹の猿を従えた玄奘を描く楡林窟の原画「玄奘三蔵取経図」は、紀元800年頃の作といわれているから、これが1036年に著わされた『西遊記』のモデルとなったのではないかといわれる。
庚申の信仰とは、干支の一つである庚申の日に徹夜して眠らず、身を慎めば長生きできるという信仰である。道教では、人間の体内には三尸というものがいて、庚申の日に天に昇って、寿命を司る神に人間の過失を報告し早死にをさせようとすると説く三尸説があった。日本には8世紀の後半に伝わったといわれる。10世紀には天皇を中心とする庚申待が宮中で恒例として行われ、王卿や侍臣たちは酒饌を賜り、囲碁、詩歌、管絃などの遊びをしながらの徹夜であったという。近世に入ると各地で庚申講が結成されて、もっとも一般的な講集団となり、村落の有志は庚申の日の度に宿に集まって共同飲食をしながら世を徹して談笑した。この習慣は一部根強くいまの大和の村落にもみられる。また庚申信仰は猿と深く結びつき、道祖神と習合したり、三猿が庚申塔に刻まれたりした。このようにして玄奘三蔵の元お守りであった「ぬいぐるみ」の申は、庚申さんのお守りとなった。身につけておけば災難を代わりに受けてくれる、申の背中に願いを書いて吊るしておくと願いを叶えてくれるという次第である。
天理教では存命の教祖の赤衣の布切れを「お守り」とする。それは一生に一度、本人がおぢばに帰ることにより下付されるものであるから、「証拠守り」ともいわれる。「心の守り」が「身の守り」と教えられ、それは記念品やお土産ではなく、悪難よけとして軒先にぶら下げたりするまじないの類いではない。信心の営みにおいて存命の教祖に導かれ、共に歩ませて頂くという意味が赤衣の「お守り」には籠められているのである。「ひながたの道」において「身代わり」になられた教祖生涯の思いが、御手づくりの品である「ぬいぐるみ」や、玄奘三蔵や庚申講の「身代わり」申の「裏守護」の姿を通しても伝わってくる。「元の理」における「めざる」一匹のイメージもひろがる。

2006年4月
小林秀雄と天理教

近代批評の元祖といわれる小林秀雄(1902〜1983)は、今日出海との「交友対談」(『毎日新聞』昭和50年10月10日付)で、中山正善二代真柱について次のように回想している。「私のおっかさんは天理教だったんだよ。まだ戦争中のことだった。天理教のお祭りに招待された。盛大なものだったな。(中略)それが中山さんに会った最初だが、最後は死ぬ前だった。そのころ私は勾玉に凝っていてね。石上神宮に、あそこで出土した有名な国宝の勾玉がある。それを見に行った時、会ったんだ。勾玉を見に来たと言ったら一緒に行くという。近所にいるが、石上さんにお詣りするのは初めてだと言ったよ。家にも玉があるから見せるというので帰りによって御馳走になった。その晩、逝くなった」(逝去は翌日の12:10が正しい)。
天理教教会本部の来客名簿を記した「玄関日誌」を確かめてみると、小林秀雄は昭和42年11月13日の13時55分に来訪し、17時48分に辞去と記録されている。また、小林は戦前のことであろうか、真柱邸に気楽に滞在して、毎日酒を一週間ほどくらっていたら、もう帰ってはどうかと言われたとも語っている。多分、巨匠のことだから、国宝や重文の宝庫である天理図書館や参考館でひそかに調べものをしに来ていたのではないかと思われる。
秀雄は小林豊造・精子夫妻の長男として東京市神田区で生まれた。母精子は明治13年、東京市牛込区で城谷謙・やす夫妻の長女として生まれている。秀雄は母精子のことをいつもおっかさんと呼んでいたが、ベルグソン論を語った『新潮』の連載「感想」(単行本未刊行作品)では、その冒頭を母の死から次のようにはじめている。
「終戦の翌年、母が死んだ。母の死は,非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う」と述べ、「西行」や「実朝」、そして「モオツアルト」も戦争中に書き始め、戦後本にした時「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然に大事にしていた自分の悲しみを真面目に表現したまでだと言っている。つづいて母の霊前の蝋燭が切れ、夕方外へ買いに出たとき、行く手に大きな一匹の蛍が見事に光り飛んでいるのを見て「おつかさんは、いま蛍になっている」という考えから、どうしても逃れることが出来なかったという「童話的経験」を詳しく語っている。また小林は、鼎談で平野謙からある文芸時評の執筆動機について聞かれたとき「僕は学校を出てから、金がなくってお袋を養わきゃならない。そのために文芸時評を書いた。それが一番確かな動機です」と答えている。水道橋駅のプラットホームから一升瓶を抱いて酔っぱらって転落し奇跡的に救かった事故にも、小林は「母親が助けてくれた事がはっきりした」と述べ、それは「考えたのでもなければ,そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである」と言う。また小林は、不良少年になりかかっていて、大学に入るつもりはなかったが、おっかさんが望んだので入ったんだと娘白州明子に語っている。結婚式もおっかさんが望んだので式を挙げた。水道橋の事故からは、ことあるごとに「おっかさんのお陰だ」と繰り返していたらしい。
この小林の母が、熱心な天理教信者であったことについてはあまり知られていない。母精子は大正10年、小林が19歳の時に、肺患のために鎌倉に転地療養しているが、その時に天理教布教師との出会いがあったのだろうか。小林の人生に強い影響を及ぼした精子の入信の時期や動機については不案内である。『邪宗門』で知られる作家高橋和巳の母親も熱心な信者であったが、彼は母親について何かを語っているのだろうか。読者にご教示頂ければありがたい。 

2006年5月
天理教東アフリカ・ウガンダ布教への期待

現在、天理教はアフリカ大陸において、コンゴ共和国とケニア、そしてウガンダの3ヵ国で布教伝道を展開している。1962年天理教中山正善二代真柱によって始められたコンゴ伝道は40数年の歴史があり、1982年に開始された「餓えた子にミルクを」の全教的運動が契機となり始まったケニア伝道は20年近くの歴史をもっている。今回筆者が訪問したケニアの西方、タンザニアの北西に国境を接するウガンダ共和国は、まだ布教師が入国して10年もたっていない。これら天理教アフリカ伝道3拠点の布教活動が辿った道は、その成果と課題において共通のものもあれば、独自のものもある。異文化伝道史に見られる個人的・組織体制的な試行錯誤から学び、それらを徹底的に比較検討することは、アフリカ伝道の未来に貴重な教訓を与える。机上の伝道理論や精神論だけでは、異文化伝道圏での真の信仰の土着化は望めない。
アフリカ大陸伝道に際しては、アフリカ諸国が持つ激動の近代史を踏まえ、それぞれの言語的・社会的・経済的・政治的現状を適確に把握することが大切である。しかし、一方忘れてはならないのは、日本においては滅多に経験することが出来ないアフリカにおける布教師の壮絶な布教体験の悩みや苦しみ、そして感動に触れることである。こういった体験への共感は、アフリカ伝道への新たな力強い動機を天理青年にもたらすという意味でも大切だし、布教師の伝道活動における内面的・精神的な問題を突破するためにも役立つ。
筆者は本年3月、ウガンダにある1)天理教真誠ウガンダ布教所(渕和分教会)、2)Tenrikyo Mission Center of Uganda(南浦分教会)、3)天理教キグング集談所(男能富分教会)の3ヵ所の伝道拠点を視察した。
1)の山崎敬充(29歳)所長は所属教会がNGOのAAA(Asia and Africa Association)の活動を開始した1996年にウガンダを初訪問している。布教所はウガンダ第2の都市マサカ市から30キロほど奥の山間地帯・ナプトングワ村にあり、無医村への医療巡回などを通して7年前より布教を開始した。布教所はいま地主より立ち退きを迫られている。移転を節として山崎は、NGO活動と平行する方法から、布教活動一本への切り替えを望んでいるようである。
2)の石原藤彦(37歳)センター長は2003年5月より首都カンパラ市の貧民街で単独布教を開始、同時に空手道場を開いた。ようぼく4名(うち英語検定講習前期修了2名)、信者約200名。2年前より家族を呼び寄せ、ウガンダ日本人会副会長をもつとめている。
3)の集談所長はレイモンド・キャリンゴンザ(22歳)で、2004年のはじめエンデベ空港の近くビクトリヤ湖沿いの漁村・キグングで単独布教をしていた五十嵐仁(44歳)にマラリアで危篤のところを救けられ、修養科英語コースを2005年修了後、北海道の所属教会で3ヵ月の住み込みの修養を終えている。現在、天理教語学院(TLI)に在籍。将来、教会はこの若き所長を中心にウガンダ伝道の土着化と自立化を目指す。現地では左官や土建業を職業とする信者達が小さな集談所の普請をほとんど自力で完成した。今回の筆者のウクンバ大学における招待講演は、同大学ユナス・ルベガ教授(ようぼく)の要請に応えて行ったものである。
ウガンダに見られる自立的単独布教専従の海外伝道のかたちは、アフリカ伝道では珍しい。ウガンダにおけるすさまじい谷底生活での不思議なたすけの噴出は、布教師の魂を勇ませずにはおかないだろう。平坦な恵まれた生活環境を神の守護と勘違いしていては、神の奇蹟は吹き出してこないことを学ぶ。

2006年6月
「やしろ」と「やしき」を考える

天理教において聖地である「ぢば」に帰るとは、「魂」がその宿し込まれた元の「屋敷」に回帰する事であり、由緒ある神社・仏閣や教会に詣で祈る事とは意味を異にしている。信仰者は己の「魂」が宿し込まれた元の「やしき」において、月日の「やしろ」である母なる教祖に出会うのである。
「社」(やしろ)は「家代」を意味し、さらに「屋敷」を意味する言葉であった(『俚言集覧』)。「やしろ」は「やしき」(屋敷)をも指していたのである。天理教においても「ぢば」に帰るとは「やしき」に帰ることを意味していた。四方正面「鏡やしき」の中心にある人間宿し込みの地点「ぢば」は、月日の「やしろ」である教祖の「魂」が発現した場所である。立教における「場所の因縁」の場所とは、月日の「社」である教祖「魂の因縁」が時満ちて発現した中山氏という「屋敷」を意味している。一方、「旬刻限の理」とは、「やしき」という空間に「やしろ」を現前せしめた時間の到来を指している。「にんけんをはじめだしたるやしきなり そのいんねんであまくたりたで」(ふ4:55)とはこの意味である。
江戸末期の国語辞書である『俚言集覧』には「ヤシロもヤシキも本源の義は同じことなり」とあった。しかし、「社」という言葉は神の宮居、「屋敷」は地所の構えを意味することになる(「『元の理』言語の特異性─その表現論的分析」太田 登)。つまり「やしろ」という言葉は、「社」と「屋敷」という言葉に分化したのであった。一方、「月日のやしろ」という言葉は、本来親神が入り込んだ教祖の身体を指していたが、教祖が現身を隠されてからは「存命の理」を象徴する言葉となった。それに対して「やしき」は、「かみのでんぢ」(七下り目八)であり「このよふをはぢめだしたるやしき」(ふ6:55)であり「かんろふだいをすへる」(ふ10:79)、「そふぢ」(ふ2:18)を急き込まれる「屋敷」であった。「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ」「つぎ足しは心次第」という言葉は、「やしろ」の不変性と不可視性、「やしき」の可変性と可視性を説いている。用木の心の普請を目指す可視的な「屋敷」づくりは、「社」である教祖を施主に見立てて、「真柱」と「用木」が永続化することにたとえられる。しかし、「やしろ」の魂が語る神意実現を目指して拡張し続ける「やしき」普請の課題を解決することはむずかしい。このこと、つまり「やしろ」と「やしき」というキーワードがかもし出す教理的緊張感は、明治16年本の「こふき話」を太田説に従えば「むつかしいこと」として暗示されていたという見方も成り立つ。
なぜ「むつかしい」かといえば、「やしろ」と「やしき」の両概念を神と人間、聖と俗などといった対立的論理ではなく、通底する教理として繋げる事が「むつかしい」のである。つまり、「元の理」の底流には、陽気暮らしは神と人間によってなされるという事が前提としてあるからである。
「やしろ」の「扉」を開いて、教祖が人間世界に出るという表現は、「やしき」造りにおける神人共同を意味している。このことは、神と人間の関係を対峙して捉える一神論的宗教の聖地建設とは異なっている。「やしろ」と「やしき」はもと同義であったが、それが別個の言葉に分化したように、教史における「やしろ」と「やしき」の現実的ありかたも変化してきた。「やしき」の変化拡張は、一つには教団発展の証でもあったが、両者の距離をひろげることにもなった。この教史に見られる不可避的逆説を、教学的に如何なる信仰的回路をあらたに築いて乗り越えるかは、将来深刻な問題となろう。
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by inoueakio | 2006-01-01 09:35 | 巻頭言集
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